その場所。
七色の虹の様な光がやわらかい色合いで周囲を包み込んでいるような、不思議な場所だった。
前後左右上下、どこを見ても美しい色彩の虹がまるで水面で揺れているようにゆらゆら動いている。
がずっと以前にプレイヤーとしてアリスが見た狭間の世界とは全然違うものだ。
まぁ、は現実の世界の人間なんだから当然と言えば当然なんだろうけど、
どっちにしろ今のこれは現実として見るには幻想的すぎる。
きょろきょろと落ち着きなく周りを見回し、
不意にそこでは自分の手に例のチケットがあることに気付いた。
真赤なチケットには、もう何の文字も書かれてはいない。
だけど、の耳にはどこからかあの音が聞こえて来ていた。
あの音。
心臓の音と、時計の指針音の両方が入り混じった様な、あの。
―――どくん どくん どくん どくん
カチ コチ カチ コチ カチ コチ
直接頭に響く様なその音を聞きながら、は無意識に足を進める。
どっちが右でどっちが左なのか。
どっちが東でどっちが西なのか。
どっちが北でどっちが南なのか。
こんな場所じゃそんなことは全然分からない。
それでもどうしてなのかの足はしっかりと方角を見極めている様に迷いなく進もうとして居た。
そして気付いた。
ほんの少しずつ、本当にほんの少しずつなんだけど、
同じ大きさで混じり合う様に響いていた
そうだ。
確実に心臓の音の方が大きく聞こえ始めていることに、は気付いた。
それはまだまだ僅かの差で。
だけど、このまま心臓の音だけがの耳に響くようになったその時。
その時こそが、きっとが現実世界に完全に戻ってしまう時だ。
―――どくん どくん どくん どくん
カチ コチ カチ コチ カチ コチ
一歩、また一歩、進むごとに、とても小さな変化が起きる。
それを積み重ねることで、は現実世界に戻るんだ。
戻って、しまうんだ。
「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・」
視線を上げずにそれでも少し足早に進めていた歩を、はそこで始めて緩めた。
今、こうなってようやく実感が湧いて来た。
は、還る。
このまま真っ直ぐ進めば、間違いなく、還ることになる。
それでいいんだ。
だってここはバーチャル。
創られた世界。
少し長く居過ぎて、色々曖昧になってたけど、これで。
・・・・・・・・・ブラッド・・・・・、怒ってる、わよね・・・。
彼の事を思うと、胸の奥が悲しみとか切なさとか、そう言った物でずしりと重くなる。
還りたくない。
なんて、思っちゃいけない。
そんな気持ち、抱くこと自体変だ。
は、違うんだから。
アリスとも、絶対的に、違う。
「・・・・・・・・!!!!」
「・・・っっっ!!!!!???????」
突然背後からふって現れたみたいにブラッドが姿を見せて、の名前を大声で呼んだ。
余りにも突然過ぎて、そしてあり得なさ過ぎる展開過ぎて、心臓がホンキで止まるかと思った。
反射的には馬鹿みたいに大口を開けて彼の顔を凝視した。
「な・・・・・・・!?ぶ・・・・ラッド!!??」
「行かせはしない・・・!還る事など許さないぞ?君は、私との約束を破るつもりか!?」
「はいっ!?ちょ・・・・・・・え?ええっ!!??」
彼らしくもない大きな声。
それに凄く興奮してると言うか、取り乱してる。
ブラッドはずんずんといつもの彼からは見られない様な素早い足運びでの傍まで近づいて来た。
な、何だ、なな何だ!!??この展開ぃいいいっ!?
あり得ない。
こんなこと、本気で凄く、あり得ない。
だってはアリスとは違う。
彼はアリスの場合も確かに彼女を追って狭間の世界まで来てはいたけど、
あれは彼女がある意味であの創られた世界、つまり二次元の同じ住人だからあり得た事。
は違う。
は、本当に本当の現実世界の人間なんだから。
こんなこと、あり得る筈がない。
パニくりかけたの正面。
近づいたブラッドが、ガシっと力強く、の腕を掴んだ。
「ちょ、ちょっと・・・!!ブラッド!!な、何であんたがここに!?どうやって!?」
「どうだっていいだろう、そんなことはこの際問題じゃない」
「大問題だから!だ、大体、ここに来られる訳ないのに・・・!」
「そうだな、私には実に居心地の悪い場所だ。最悪だと言っていい。今にも弾き飛ばされそうな感覚だ」
言いながら、ブラッドは最初から険しかった表情を益々歪めた。
にとっては何だか安らかな気分にさせられるような空気があるこの場所も、
彼にはかなり負担がかかるような場所らしい。
そりゃそうだ、多分本来なら足を踏み入れられない領域の筈だ。
「、君にはそちらの世界に戻ることは許さない。私と共に戻るぞ」
「はい!?無理・・・!!は、放してブラッド!!駄目なんだってば!!は!!」
「悪いが、君の意見など聞いてはいないんだ。私が戻ると言ったら戻る、選択肢などそれ以外にない」
「悪いどころの話じゃないし・・・!選択肢って、それ選択権ないし!!」
「よく分かっているじゃないか、さぁ戻るぞ、我々の屋敷に!」
「痛いっ!ちょっと・・・!!ブラッド!!止めて・・・!!!」
こんなこと、こんな展開、まったくちっとも予想してなかった。
まさか自分自身が身を持ってあのアリスとブラッドの狭間の攻防戦的なことをしなくちゃいけないなんて。
大体にしてこのドグサレ男、人の話を全く聞いちゃいない。
そんなこと今に始まったことじゃないけど、それにしたってこの状況はあり得ない。
「無理なんだって!はもうそっちに居られない!」
「何故だ!?そちらの世界に還らなければならない理由でもあるのか!?この私を置いて!?」
「あ、あるわよ!!だって
「そんなことは最初から分かっている!!」
「分かってない!!ブラッドは分かってない!!」
違う。
ブラッドだけじゃない。
きっとあの世界に居る誰にも分からない。
ハートの国が創られた世界なんて。
にとってはバーチャルで、二次元的な場所なんて。
の
「ああ、分からないさ!!分かりたくもない!!君の都合などどうでもいい!!君は私と共にこの世界に残るんだ!!」
「な゛っ!!!!!だから無理だっつってんでしょ!?行かないから!!は戻るんだってば!!」
まさにあの狭間のアリスとブラッドの怒鳴り合いのシーンの再現をしてる気分だ。
だけど何度も言う様に、は彼女とは違う。
色々な意味で。
彼女みたいに結果的に悲しい現実みたいなものがある訳でも何でもない。
それでもハートの国はある意味ではアリスの居場所。
何と言っても『ハートの国のアリス』なんだから。
は彼らとは絶対的に違う次元の人間。
その場所に居る筈のない、特殊で特異な人間で。
「じゃなくてもいいでしょ!?余所者がいいんならアリスでもいいんじゃない!!」
こんな言い方はアリスに対して失礼だと思う。
でも今はなりふり構ってなんか居られなかった。
実際、彼女の行動次第ではブラッドが後を追っていたのは彼女の方だったかもしれないし、
そしてそれがある意味では正しいこの世界の姿のひとつなんだから。
そう思うと、正直胸が痛いけど、今は気付かないふりをする。
「アリスは私の大切な友人だ。だが、君は彼女に嫉妬する程には私を想ってくれているんだろう!?」
「っ!は・・・っ!!」
「この私が、今更余所者だと言う理由だけでこんなふざけた場所まで追って来る訳がないだろうっ!」
よっぽどこの場所が合わないのか、彼は苛々しっぱなしだ。
と言うか、それ以前にがどうしても自分の世界に還ろうとしている姿勢にムカっ腹きてるんだろうけど、
こっちだってここまで来てはいそうですか、とハートの国に戻る訳にはいかない。
ブラッドの事は本当に本当に好きだし、帽子屋屋敷の皆も、ハートの国のあるあの世界も、
そしてあの場所で出会った皆も好きだ。
今はもう、キャラだ何だと笑って言えない位に。
だけど、だからこそ戻らなくちゃいけない。
「っ、つ、いた、痛い痛い痛い痛い!!!ブラッド!!あんた腕に指食い込んでるから!!!」
「何度も言わせるんじゃない、。君には最初から選択肢など用意されていないんだ!!
この私が君を愛したその時から、君は私の隣に留まる以外の道などあり得ない!!」
「勝手な事ばっかり言ってんじゃないっての!!こんのっどぐされ野郎!!放して!!はなっ・・・・・・・・・・」
大声で喚き散らしてそう口にしたその時。
ぽろり、と、不覚にも涙を流してしまった。
「・・・・・・!」
「っ、」
これにはさすがのブラッドも面食らったようで、ほんの一瞬腕を掴んでた手の力が緩んだ。
は唇を噛みしめて、ブラッドを睨みつける。
後から後から零れようとする涙を堪えようとしたけど、それは無駄な抵抗に終った。
あっという間にぼろぼろ涙が頬を濡らす。
「・・・・・私と戻ることが、泣くほど嫌なのか?」
「そうよ、嫌だ・・・!は、」
嘘。
嘘。
大嘘だ。
嫌なのは、泣くほどあの世界に未練があるだ。
泣くほど執着してしまったあの世界と、大好きなキャラクターじゃなくなってしまったブラッドの事。
そうだ、キャラなんかじゃなく、一人の男性として、ブラッドを好きになってしまってた。
現実じゃない。
現実じゃない。
現実じゃない。
呪文みたいに自分に言い聞かせ続けてた日々。
それを通り越して、いつのまにかそれさえ受け入れてしまってて、言い聞かせる事も忘れてた。
あのまま、毎時間帯
そうだ、全部全部、の一部になってしまってた。
還りたい訳じゃない。
でも、現実の世界も勿論大事で。
家族の事とか友達とか、大切な人は沢山いて。
だけど、だけど。
「ブラッドと一緒になんか、戻らない!!!!!!」
泣き叫ぶ子供みたいに告げた一言。
のこの言葉は、きっとブラッドを傷つける。
の言動が彼にそれ程影響を及ぼす事の出来る事実、本当はそのことに喜んでる自分が居る。
でもこれが最後だから。
この世界に居る筈のないが元の現実世界に還ったら、きっと皆、のことを忘れて行く。
こんな酷い台詞でも、ブラッドの心に少しでも長くの言葉が残るんだったら、なんて。
も相当歪んでる。
「・・・」
「・・・・・・・何?」
「君が泣こうが喚こうが、私の意志は変わらない」
「・・・・・・・・・・え!?・・・・・・・ンンッ!!」
腕を掴んでいた彼の手に再度、力がこもり、更にを引きよせて強引に唇を奪われる。
反射的に押し返そうとしたの手は、当然の様に全く無意味だった。
それからブラッドはの唇を貪る様にキスをし続けた。
呼吸する間も与えない位に荒々しいキス。
お互いの唾液に混じって涙の味がする。
「許さない・・・、私の傍から離れるなど・・・、どんなに泣き叫ぼうとも・・・君は私のものだ、・・・」
息が僅かに弾む、キスの合間。
ブラッドが超の付く至近距離からの瞳を覗き込んで囁く。
怖い位の冷たさと鋭さ、だけど同時にぞくぞくする位に蕩ける甘さが含まれてる。
「ブラッド・・・・、は・・・、」
「君の髪の毛一本も全て私のものだ、君の心臓が止まってしまう最後の瞬間まで、
私の時計が止まるその時まで、君は私のものだ。
例え君自身であろうと、私から君を奪う事など許されない」
「さいあく、・・・・・・・・・どぐされやろう・・・!」
一度は止まりかけた涙が、またしてもぼろぼろと零れ出す。
の唇と、ブラッドの唇を濡らしてく。
その涙さえ飲み込むように、ブラッドはまた、荒々しく濃厚なキスをし続けた。
お互い抱き殺してしまうんじゃないかと言う位に力を込めて相手の体に腕を回している。
は泣きじゃくる子供そのままに、夢中でブラッドのキスに応えていた。
そうして、気付いた時には、あの真赤なチケットは、跡形もなく消えてしまっていたのだった。
それが何を意味するのか、分からない訳がない。
それに、還る道が無くなって、ブラッドの傍に残ることになって、
これでめでたし、ハッピーエンド☆と言える程楽観的になれないのもまた事実。
だけど確実に、喜んでいる自分も居て。
この先きっと、後悔も沢山するだろう。
還れなかった現実世界を思って、沈み込む日もきっと来るだろう。
だけど、それでも。
君がこの先何度、帰り道を見つけようとも、私はその全てを叩き潰してやる。
もう一度言っておこう、私に愛されたその時から、
私の隣に留まると言うこと以外君に選択肢はないんだ。
はこの最低、最悪、超の付く自己中心的なブラッドが好きだ。
とブラッドが向かう先は、さっきが歩いていた方向ではなくて、
時計の指針音が大きく響く方向。
時計仕掛けの住人達の住む、これからのの現実となる愛すべき狂った世界。
そうやって今は、開き直ってしまおうと思う。
(END)
straysheep
救ってくれたあの人は、神様とは程遠い、最低男!