2時間帯程巡った所では極自然に目を覚まし、ベッドから身を起こした。
今回ばかりは夢魔も姿を見せなかった事と、
元より睡眠を多く必要としない体である事とが幸いし、
彼女はこの短時間でも十分に疲れを取ることが出来ていた。
目覚めた後にしなければならない事はもう決まっている。
は速やかにベッドを離れると、自らの仕事机に足を運んだ。
「・・・・・・・・・・・・・・・・うちのボスは相変わらずいい性格ですこと・・・。」
一瞬目を剥いた後、深く大きな溜め息と共に彼女はそう漏らした。
の視線の先。
半ば書類の山に埋もれかけた机が悲鳴を上げている。
その量は文字通り『大量』であり、並の人間ならばこれらの書類を捌くのに恐らく20時間帯以上は要すであろうと察せられた。
だが、彼女の能力は役持ちや有力者などと比べても全般的に桁外れに優れており、
この書類の山を処理するであろう時間も彼らの10分の1程で済む事はほぼ間違いなかった。
そしてだからこそブラッドは部下に彼女の机へこの大量の書類を運ぶことを指示したのだ。
恐らく既に次に捌かねばならない書類も何所かに用意されている筈だとは覚悟していた。
寧ろ今回は事前に彼女がこの帽子屋屋敷に滞在する事を告げていなかった為、
以前まで通常渡されていた仕事量に比べれば幾分か少ない方だと言える。
は早々に気を引き締めると、
手始めに急を要すると思われる書類の束に手を伸ばした。
万年筆を片手に、椅子に腰かけ、机の僅かな隙間で仕事を開始する。
最初の束(期限が差し迫っているものや重要な類のものばかりだ)は、
ざっと見積もっても500枚以上はある様だが、
これらを捌いた後にすぐにブラッドの元へ確認を願う必要があった。
つまり、彼の部屋へ自身が足を運ばねばならないのだ。
彼女はその時を思うと少なからず頭痛を覚えた。
恐らく書類を渡して速やかにブラッドの部屋から退散する等と言う事はほぼ確実に不可能だろう。
彼は常に退屈しない遊びや玩具を求めている。
そしてどうやらはその『鴉』と言う特殊な地位から、
ブラッドにとっては適当に価値のある、適当に珍しい、
つまりは彼の暇つぶしに相応しい『玩具』としてお眼鏡に叶ってしまった様だった。
ブラッドのに対する興味は彼女のルールに触れる程大きなものでは決してなかったが、
それは彼女が今までブラッドの手から上手く逃れていたからに他ならない。
今回もまた彼と一戦交えねばならないのだと思うとそれだけで憂鬱な気分になる。
彼女は小さな溜め息を零し、万年筆を進める手に微かに力を込めたのだった。
「ボス、さまをお連れしましたぁ〜」
「そうか、入れ・・・。」
空気の抜けた風船の如きゆるい口調での書類を抱えたメイドがそう告げると、
室内のブラッドは彼女以上に気だるげな声音で応答した。
メイドは書類で両手が塞がっているため、自身が扉を開くこととなった。
とは言え、その彼女も片手には書類の束を手にしているのだが。
「お前は書類をその机に置いたら出て行っていいぞ。」
「はぁい、承知いたしました〜、ボス。」
ブラッドの指示に従い、メイドは速やかに書類の山を机の上に置き、退室する。
もそれに習って手にある書類を机へ乗せた。
「君はまだここに残っていなさい、。」
「・・・・了解。ボスが書類の確認をして、
合格点を貰えなければ私の仕事も終わったとはいえないし。」
「そういうことだな。
そのソファにでも座っているといい、すぐに紅茶を用意させよう。」
運ばれてきたばかりの書類に目を通しながらブラッドが続ける。
はソファに腰を下し、苦笑染みた笑みを浮かべた。
「私は客人じゃないわ、ボス。だから持成す必要はない。
普通に待ってるから気にしないで。」
「私が、そうしたいんだ。君に紅茶を飲んで貰いたい。
いや、飲んで居ろ、。
そう、君は私の部下だ、私の指示には従わねばならない、そうだろう?」
「了解。ならば当然、有り難く頂くとしますか。」
クスリ。
小さく笑い、彼女は頷く。
ブラッドは満足げに僅か瞳を細めた。
そして頃合いを見計らった如く、メイドが姿を見せ、彼女の元へ紅茶を運んでくる。
メイドが室から出て行った所で、再びブラッドが口を開いた。
「しかしやはり君の能力は衰えていない様だな・・・。
この量の仕事をこれ程短時間で完璧に済ませて来られるとは・・・、
睡眠時間を考慮しても実に素早いと言えるだろう。」
「お褒めに預かり光栄。
ですけれども、それが分かっていたからあの恐ろしい山を私の机に築かせてくれたんでしょう?ボスは。」
「有能な部下にはそれに見合った仕事量が必要だ。」
視線を書類に落としていた彼はチラリと彼女を一瞥し、
同時に口元に僅かな笑みを浮かべた。
は咄嗟に肩をすくめてそれに応える。
「それに君は金に困っていると言っていただろう?
安心しなさい、君の働きは十分給料に反映されているさ。」
「そこは全く心配してないわ。」
言って、彼女はテーブルにあるティーカップに手を伸ばした。
その香りを楽しんだ後、紅茶を一口啜る。
スッキリとした心地よく爽やかな紅茶独特の苦味が彼女の喉を通過していった。
暫しの間ブラッドは無言で筆を進めており、
ペンが紙を滑る音のみが室内に響いていた。
やがて再び口を開いたのはやはりブラッドの方だった。
「君がここに滞在して居られる時間も残すところ十数時間と言った所か・・・。
今回の書類を片付ける時間を除けば、もっと少なくなるな・・・。
だが君ならば少なくとも5時間滞以内にはあれを捌き切ってしまう事も可能だろう。」
「・・・今私の机にあるものだけが全てであれば、可能だと答えてもいい。」
「フッ、残念ながら、今回は君がここに滞在する事を知り得なかったからな。
君に回す書類はあれが全てだ。」
「そう、じゃあ大丈夫よ。
睡眠は十分取ったから当分は仕事に集中して居られるし、
寝ることでここで過ごす時間を無駄にすることはないわ。」
彼女はそう答えると、カップの底に残る紅茶の最後の一口を飲み干した。
「・・・そうか、当分睡眠を必要としないとは、便利だな。」
「そうかもしれないわね、私はこれが当たり前だから余りよく考えた事はないけど。」
「君の言う『当分』とは、具体的に何時間滞程度の事を指すのかね?」
「少なくとも50時間以上は平気。」
と会話を交わしながら、ブラッドはゆったりと緩慢な動作で席を立った。
彼女はそれを視線の片隅に納め、カップを再び紅茶で満たす。
「なぁ・・・以前から君に聞いてみたいことがあったんだが・・・。」
「何?」
短く問い返し、極自然に紅茶のカップに口を運びながらも、
は彼がソファの後ろへ回り込んでいる目的をいち早く察していた。
「鴉が身体能力のみならず、
あらゆる面において我々よりも優れているのは周知の事実だ。
そのおかげでこうして大量の仕事や重要なものを君に回す事も可能なのだからな。」
「ええ、滞在先の組織には貢献する事、それが鴉の義務のひとつでもあるから。」
「知力も体力も充実している・・・、それを君は自覚し、
実に上手く利用していると言う訳だ。羨ましいことだな。」
皮肉とも取れる口調でブラッドは続け、常と同様のニヤリとした笑みを浮かべた。
既に彼はの背後に回り込んでいる。
「まぁね、その通り。それが鴉の役割よ、ボス。」
彼女は慎重な動作でカップをテーブルに置き、
身体の位置を先程までより少々移動すると、ブラッドの方へと振り向いた。
彼は常に手にしている白いステッキをクルリと一周させると、
その先をソファに座ったままの彼女の胸に無遠慮に押しつける。
だが、は抵抗するでも臆すでもなく彼を見上げていた。
「聞いたところによると、
至近距離からの発砲にすら耐えられる強度まで備えているらしいな、
君のソレ(時計)は?」
「そうね、試した事はないけど、どうやらそうらしいわ。」
「私のマシンガンにも耐えられるということか?」
変わらず気だるげな口調ながら、
その瞳の奥には妖しくゆらめく炎が潜んで見える。
「試してみよう、なんて言わないでね、ボス。私も自分の身が可愛いの。」
「そんなことはしないさ・・・。君は優秀すぎる程優秀な部下だ、殺すには惜しい。」
クク。
喉の奥を鳴らしてブラッドが笑う。
彼女は肩をすくめて溜め息を吐いた。
だが、それは安堵によるものではなく、彼の態度に純粋に呆れてのものだった。
「まぁ、銃如きで君を殺せるとは私も思ってはいないがね。」
「――それで、ボス。結局の所何がお知りになりたいのかしら?
それとも今までの会話の中にあった問いが全部それなの?」
質問をしたいと口にしていた筈のブラッドだが、
のらりくらりと会話を交わしているのみで、それらしい問いを口にしていない。
彼は再びクルリとステッキを軽やかに回し、
彼女の胸に押しつけていた杖の先をようやく離した。
「君自身でさえ自覚している程のあらゆる面で優れているその能力だが・・・、
一部大きく謎に包まれている部分がある・・・。私はそれが知りたいんだ、。」
あらゆる、と言う台詞に殊更深い意味を含ませるようにして、
ブラッドは彼女にそう告げた。
そして、徐々にとの距離を詰めていく。
彼女は暫しの間無言で彼の視線を受け止めていた。
その瞳には全く憶した様子も困惑した様子も見受けられない。
としては余りにも予想の範疇内での出来事だった為、
動揺のしよう等ある筈もなかった。
ブラッドは一端彼女から身を離すと、
そのままソファの前までゆっくりとした歩調で足を運び、再びとの距離を狭めた。
「どこまでも有能な鴉と言う存在の、
ヴェールに包まれたその場所を、私は今すぐに解き明かしたい・・・。」
「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・。」
秘めごとを囁く如く、低く掠れた声音で彼はそう口にする。
常と同様の億劫そうな口調はそのままだが、
比較にならぬ程の色香が含まれた艶やかさが言葉の中に滲みでている様だった。
そしてそれは恐らく故意に彼がそうしているものであり、
そうすることで相手がどれ程彼に魅せられるかを承知の上だと窺い知れた。
経験の豊富さは外見からも想像できる通りであり、
それは決して間違った認識ではない事をはよく理解している。
「今更だけど、ボス。鴉のルールはご存じよね?」
「ああ、知っている。だが安心しろ、私は鴉と言う存在に興味があるだけだ。
愛情を注ぐつもりも憎悪を抱くつもりない。当然…これからも、な。」
「極度の愛情や憎悪だけでなく、人を留める鎖は存在するわ。」
今や吐息が絡まり合う程の至近距離まで詰めているブラッドを見つめ、
は淡々とした口調で答えた。
彼が言葉の先を促す如く微かに瞳を細める。
「執着、よ。自分自身が別に愛情を傾ける存在があったとしても、
相手にそれが出来る事は認められない。
例えそこに深い絆が存在しなくても、自分以外が触れる事は許さないと言う思い。」
酷く歪んだ鎖だ、とは説明を口にしながら考えていた。
だが、この歪んだ鎖はこの世界の住人ならば誰しもが隠し持っている。
特に役持ちのねじ曲がった思考から生じる鎖は恐ろしく冷徹で頑丈な物に違いない。
それは推察ではなく最早確信と言って良かった。
「ほぅ・・・、つまり、君と多少なりとも関係を持ってしまえば、
私が確実に君に執着すると・・・そう君は考えていると言うことか?
随分とまた自信に満ちた物言いだな?」
揶揄する響きを顕著に滲ませた声音でブラッドは彼女にそう告げ、
薄い唇の端を曲げて笑んで見せた。
「人間に対してでなく、『物』に固執するのと同じよ。
そんなものでも、私にとっては命取りになるの。
頑丈な筈の鴉が短命だって言われてる理由はそこにある。
幾ら何でも私はまだ死にたくない。」
だがそう口にする彼女の瞳に懇願の色はない。
至近距離で向けられた視線は潔い程に彼を真っすぐと見据えている。
他の者から向けられたものならば不快としか感じられない類の物だ。
恐らく相手が彼女でなければ彼は即座に相手を射殺していただろう。
ブラッドは暫しの間何事か思案した表情を見せた後、
から身を離して深い溜め息を吐いた。
「そうだな・・・今回は見逃してやろう・・・。
君には、私の仕事の半数を押しつけてある。
その礼と詫びを兼ねてだ・・・。さっさと部屋に戻りなさい。私の気が変わらぬ内に。」
「感謝します、ボス。」
言いざま、は優雅な仕草でソファから立ち上がり、
彼の言葉に従い速やかに室を後にした。
ブラッドはそれを視界の片隅で追うと、
彼女が完全に室から遠のいた事を確認した後、
再び深く大きな溜め息を吐く。
らしくない選択をしたものだと自覚はあるものの、不思議と不快感はなかった。
『鴉』と言う存在は余所者と同等に特殊で特別なものだ。
それを手に掛けるのも悪くはないと常々彼は考えていた。
銃殺等と言う安易な方法ではそれが為し得ないと言うところもブラッドとしては興味深かった。
退屈しのぎにその経緯を目にするのもまた一興だと思ったのだ。
だが、今は全くその気を失ってしまった。
理由は彼自身にも明確に出来ない。
ゆったりと緩慢な動作で仕事机に向かい、彼は3度目の大きな溜め息を吐く。
「がここを去る前にお茶会でも開くとしよう・・・。アリスを呼んで・・・。」
彼はその時を思って不意にニヤリと口角を上げて笑んだ。
つい今し方までの傾きがちだった気分が上昇を始める。
何よりアリスを前にしたを思うと、意地の悪い期待が膨らんでくるのだった。
現在は夜。
仕事に向かう手も珍しく快調に進みそうだ。
踏み越えられない
境界
それを超えることの出来る人間が現れたなら、さて、君はどうする?