小学6年生。
あの頃は母に強制的に通わされていたスイミングクラブが大嫌いで、
スイミングクラブに通う日は前日の夜から憂鬱で堪らなかった。
泳ぐことは元々余り好きじゃなかったし、何より水が怖かったから。
今じゃどうしてあんなに水に怯えてたのかもよく覚えてないけど、
とにかくにとってスイミングクラブは本当に嫌な場所だった。
幸いを教えてくれてたコーチはそんなにも忍耐強く接してくれたし、
とても優しい人だったけど。
それでもはプールって場所自体も気に食わなかったし、
しかも毎度何をやってもびりっけつで、それが更にのスクール嫌いに拍車を掛けていた。
―――「水はこわくないよ!今度ぼくのともだちが泳いでるのを見てみて。
本当にイルカみたいなんだ。スゴくきれいだよ!」
ある時満面の笑顔でそう声を掛けてきたと同い年位の男の子。
身長もとあまり変わらない、くりくりとした大きな目が印象的なその子には見覚えがあった。
そのコはみたいな泳ぐこともままらならない子供がこなしてるメニューとは、
全く違うコースのトレーニングをしてた。
そのコースの生徒達の中でも特にこのスイミングクラブに来るのが楽しみで仕方ないって感じのコ達ばかりの、
仲のよさげな男の子4人グループの一人だった。
その日からは何となく前よりも彼らのことを見てしまうことが多くなった。
相変わらずスイミングクラブは嫌いだったし、泳ぐことを楽しいとは思ってなかったけど、
それでも不思議と前日から憂鬱モードに突入することまではなくなっていた。
それから最初にに話しかけてきた男の子が葉月渚君という、
よりひとつ年下の男の子だと知った。
渚君が人懐っこい性格だったせいか、何だかあの日から少しずつ話をするようになり、
それから気付けばいつの間にかは渚君の仲良し君達とも友達になっていた。
渚君が泳ぎが綺麗でイルカみたいだと言っていた男の子はと同い年の七瀬遥君。
確かに遙君は水泳が嫌いなから見ても、見蕩れる位に綺麗な泳ぎを見せてくれた。
「お前が水を怖がりすぎるから、水もお前を受け入れないんだよ」
なんてことをのたまったのも彼である。
この時は「水がそんなこと考える訳ないもん!」なんて言い返してしまったけれど、
今思えば彼の言葉も納得できる。
そしてその遙の親友で、あの頃から4人の中で一番背が高かったのが橘真琴君。
渚君とはまた違う意味で初対面から好意的で、安心できるタイプのコだった。
「大丈夫、前より上達してるってコーチも言ってたし!」
練習中に毎度上手くいかずにふてくされてるに呆れもせず、
優しい言葉を掛けてくれてた男の子でもある。
最後に、もう一人。
実はこの頃のが密かに好きだった男の子。
遙とは仲がいいけれどライバルって感じの一見生意気だけど、人と話をするのが大好きな元気な笑顔の松岡凛君。
「お前全体的に力みすぎなんだよ。もうちょっと力抜けって!」
よくの頭を小突いてそうアドバイスをくれていた。
彼ら4人と出会って、は大嫌いだったはずのスイミングクラブをいつの間にか楽しみにするようになってた。
がクラブを卒業する頃に人並み程度に泳げるようになったのは、多分、
半分以上は彼らのおかげだったと思う。
は元々そのスイミングクラブのある町から三駅先の場所に住んでいたけど、
祖母の家がスイミングクラブのある場所からそう遠くなかったこともあって、
休日にはちょくちょく彼らと遊ぶ為にこっちに顔を出していた。
小学校卒業前の水泳大会で4人がリレーで優勝した時も応援に行った。
その後凛はオーストラリアに留学し、中学に入ってからは他の三人とも疎遠になってしまったけれど、
岩鳶高校入学式の時、は遙と真琴と再会したのだった。
本当は、心のどこかで期待してはいたんだけど、まさか本当に彼らと会えるなんて思わなかった。
その一年後には更に渚と再会し、
彼らは小学校卒業以来止めてしまっていた水泳を再び始めることになる。
今はあの松岡凛の妹、江ちゃんがマネージャーになり、渚と同じ一年の竜ヶ崎怜も部員の一人になって、
遙と真琴のクラスの担任である天ちゃん先生が顧問に収まり、ぎりぎりの部員数ながら水泳部を設立した。
因みに、も江ちゃんと同じくマネージャー要員だ。
実は最初は入部することを躊躇いもしたんだけど、江ちゃんが入ってくれたおかげで決心もついた。
は彼女ほどの知識はないけれど、
その分これから勉強して少しでも水泳部の皆の役に立とうと思う。
泳ぐことが大嫌いだったに、泳ぐことの楽しさを教えてくれた彼らには借りがあるから。
それに、いつの間にか帰国して鮫柄学園の水泳部に居た凛。
まるで別人みたいに雰囲気が変わってしまった彼を思う江ちゃんの気持ちも、は少し分かった。
この夏から、は、達は変われる気がしていた―――
「いってきまーす」
誰も居ない家の中に向かってそう口にし、は玄関の鍵を掛けた。
岩鳶高校に入学してから、は祖母の家で一緒に暮らしてる。
と言っても、祖母は今も働いてるし、しかも旅行好きで飲みに行くのも大好きな人。
仕事だけが理由じゃなく、家を空けることもよくある。
一日一回はメールか電話でやり取りしてるものの、数日顔を合わせないのなんて日常茶飯事だ。
家事が面倒だけど、彼女のそんな放任主義名ところもこっちとしてはやりやすい。
それにここは、遙や真琴の家とも近くて、寂しいと思うことは余りなかった。
玄関の鍵を掛け終わったは、何気なく空を仰ぐ。
真っ青な空に、一筋の飛行機雲。
ミーンミーンと蝉の鳴く声が絶え間なく聞こえる。
今年は連日猛暑で既にぐったりだ。
それでも学校に行くのが楽しいと思える理由があることは、いいことだと思う。
さて、行きますか。
狭く入り組んだ階段を少し上っていけば、見慣れた顔の幼馴染が待っててくれてる筈だ。
今日も最高気温は数字を耳にするだけでうんざりだけど、
の学校に向かう足取りは軽やかだった。
(プロローグ END)