序章

が目覚めた場所は今ではもう見慣れた城の中の一角だった。
今回はどうやら大広間に来ているようだが、薄暗く広々とした室内に人の気配はない。
今は使用されていないようだし、ここに居ても特に面白くもないので、
は別の所へ移動することにした。
足が床に着かない状態で滑るような動きで前進する。
そして目の前に迫った大きな扉の正面まで接近し、そのまま構わずそこを通過して大広間の外へ出る。
この光景を誰かが見ていたら、間違いなく幽霊の類だと怯えられるに違いない。
実際、今のには実体がない。
体は半透明で、よく見ると体の向こう側の風景が薄っすら見えそうな程だし、
つま先まで形はありはするけれど、床よりも少し上で浮いているような状態だ。
誰がどう見ても怪しい存在。
とは言え、の姿が見える人間がこの城内で極限られているってのは既に分かってる。
殆どの人間にはを見ることが出来ないから、
を見て騒ぐ人間のことを心配する必要はない。
最初は寧ろが見える人が居たことに驚いた位だ。
ここは、この不思議な世界はにとって夢の世界。
夢の世界、と言うのは、夢の様に素晴らしい場所って意味とは違う。
言葉そのまま、ここがにとっての夢の中の世界って意味だ。
全体的に中国の三国志時代にとてもよく似たこの場所は、
が自分の部屋でベッドで眠った先にある世界なのだ。
今じゃ慣れたもんだけど、初めてここの夢を見たときはやっぱり流石に驚いた。
気が付いたら突然見知らぬ場所、しかも明らかに日本とは違う中華な世界に居たんだから。
が目覚めた場所は何だか見慣れない調度品の置いある小奇麗な一室だった。
窓から見える空の色は真っ青で、多分、昼ごろだったんじゃないかと思う。
机の上に開きっぱなしの簀巻きの一本一本が太く横広くなったような物、
それが『竹簡』と言うやつなんだと理解するのに数秒かかった。
よくよく見るとそれには文字が書かれてて、それがまたどう見ても『漢文』にしか見えなくて、
そこで改めてここは日本じゃないんだと思った。
ひとしきり混乱した後、俗に言う異世界トリップ的なものなのかと更にパニくり、
その後自分の体が空中に浮いてたり透けてしまってたりすることに気付いて、
パニック&パニックの嵐だった。
最終的にこんなの夢としか考えられないと言う結論に落ち着き、
実際自分が仕事から帰宅してベッドに入るまでを覚えてたこともあって、
それは間違ってない自信があった。
夢だと納得してからの順応はまぁそれなりに早かったかもしれない。
何だか珍しい場所みたいだし、今まで見た夢とは何となく違う感じがしたので、
好奇心を抑えきれずにあちこち探索してみることにした。
最初の一回は誰と接触することもなく、突然頭から意識が吹っ飛んで終わりを迎えた。
それこそ本当に、何の前触れもなく瞬時に真っ白な世界に放り投げられるような感覚がして、
また次の瞬間にははベッドの上で目を覚まし、枕元でデジタル式の目覚まし時計が鳴ってる音を耳にしてるのだ。
不思議なことに、今まで見た夢のように、
目を覚ました時から夢の記憶が急速に薄れていくというあの独特の感覚はあの夢には当てはまらなかった。
目が覚めた後も、あそこで見たこと感じたこと、全てをハッキリ覚えたままだったのだ。
それでもそれはそれだけで終わるはずだった。
何百回、何千回と見る夢の中に、
そんな不思議な夢が一度や二度あったところで特に珍しくもないだろうと思ったからだ。
けれどその翌々日、はまたしてもその不思議な中華仕立ての夢を見た。
その時の時間帯は前回とは違う夕暮れ時だった。
そして気付いた場所も今度は室内じゃなくて片方半分が中庭のような廊下だった。
一回目も勿論驚いたけど、二度目もやっぱり驚いた。
場所が違っても、同じ世界だってことはすぐに分かったからだ。
別の日の夢の続きを見ることなんてあるんだろうか。
どう見ても、中華な世界。
しかも現代の中国じゃないことは前回軽く見て回っただけでも分かっていた。
そしてこの後は連日ではないとは言え、何度もこの世界の夢を見ることになる。
その度に目覚める場所や時間はバラバラで、そこに留まれる時間も自分で制御できる訳じゃなく、
唐突に終わりを告げるって感じの繰り返しだった。
そんな中ではこの不思議な世界で見るこの場所が実は殆どの場合同じお城であり、
その城の主があの三国志で有名な劉備のものだと知った。
正直は特に三国志に詳しい訳じゃなくて、
殆どそれを題材にしたゲームや漫画なんかから取り入れた情報位しか持ってない。
それでも三国志時代の魏呉蜀それぞれの君主の名前程度は以前から知っていた。
さすがにそんな有名どころのお城を探索するなんてむしのいい夢だと思うべきか、
夢にしては城内のあちこちのつくりが細かくて素晴らしいと思うべきか、複雑なところだ。
因みにこの過程でのこの不安定な姿はどうやら他の人には見えないらしいってことに気が付いた。
どんなに人の多く居る場所、例えば兵が訓練しているようなところにでくわしても、
誰一人としてを見咎める人間は居なかった。
すれ違う侍女や武将達も同じだ。
は風景の一部、と言うか存在しない人間だった。
つまりそうやって第三者的な視点でこの世界を見られる『夢』なんだと、
はいつの間にかそう考えるようになってた。
誰の目にも見えないってことは誰に気兼ねすることなくどこにでも出入りできるってことだ。
は物珍しいこの世界で夢を見る度、色々な情報を仕入れた。
この城の主は確かに劉備だが、この世界では本来の三国志の劉備の字が名前になっていて、
彼が玄徳と呼ばれていること。
話している言葉はどう聞いても日本語だが、書き文字は中国語と言うか漢文(?)だろうということ。
この城に携わる人たちの生活、階級などなど、見ていて全く飽きなかった。
但し、いつも思うのはの夢にしては色々と出来すぎてるってことだ。
の想像から出来上がったものにしては余りに完成度が高い。
とは言え、どんなに素晴らしくても夢は夢。
は誰の目にも見えないのをいいことに、
毎回変わる自分の出現場所がどこだろうと好き勝手に出入りしていた。
この先この夢が醒める日まで、きっとそれは変わらないんだろうと、特に疑いもしなかった。
あの日、あの人と出会うまでは―――
大広間を出たは空中をふわふわふよふよと漂いながら、
いつもより少し高い位置まで浮上してみた。
以前どこまで高く浮けるのかを試してみたことがある。
正確に測った訳じゃないからハッキリとは言えないけど、多分、4〜5m位の高さまでなら浮ける。
それ以上はどんなに頑張っても上へはいけなかった。
普段はそこまで高くに浮いてる訳じゃないし、その必要性も感じないからいいんだけど。
部屋を出て廊下の向こうに広がる中庭へとふよふよと進み出て、何気なく空を見上げる。
薄い雲に覆われた空は灰色で、星は見えない。
ただ、雲を通して月の形が薄っすらと浮かび上がっていた。
雨が降りそうな、そうでもないような、曖昧な空だ。
ふと視線を廊下の先に移すと、と同じように空を見上げて足を止めている男性が目に入った。
彼はこの城の主。
そして、最初にを見つけて、が見られる限られた人の中の一人だ。


「玄徳さん」
「・・・ん?」


の声に、彼が空からこちらへと視線を移す。
暗い中だとの不安定な体は見え難いかもしれないと思ったが、
玄徳はの居る場所を的確に捕らえていた。


、来ていたのか」
「はい、ついさっきですけどね」


返事をしながらふわりと彼の隣まで一気に距離を縮める。
玄徳は軽く周囲を見回した後、ゆっくりと廊下を進み始めた。


「すまない、ここだときちんと話も出来ないからな。まずは場所を移そう」
「了解です」


今の所周囲に人気はないとは言え、誰が通るかも分からないような場所だ。
偶然通りすがった誰かがあの玄徳様が空中に向かって会話してた現場を目撃、
なんてことになったら色々と厄介だろう。
そう言う理由で人気のない場所に移動することは今までよくあったことだけど、
彼はその度にきちんとに声を掛けてくれる。
彼ほどの立場の人は勿論、一般の人間だって不審者扱いはされたくないだろう。
だから玄徳が場所を移すと言うのは極自然なことだ。
それでも彼はいつものことを気遣って声を掛けてくれる。
歴史上の人物である劉備も仁の人と言われるほどの人格者だったらしいけれど、
この世界の彼もその部分では負けては居ないと思う。
そこまで自信を持てるほど長く付き合いがある訳じゃない、だけど、
人となりを知るには十分な時間はあった。


「あら、玄徳様。もうお部屋に戻られたのだとばかり思っていました」


玄徳に従って彼の後について行っていると、その途中に華やかな桜色の衣装を身に付けた、
少し気の強そうな美人が玄徳にそう声を掛けてきた。


「ああ、芙蓉姫か。空を見上げて考え事をしていたら少々時間が経ってしまってな。
そこでコイツに声を掛けられた」
「え?こいつ・・・って、きゃっ!?」


どうやらの姿に気付いてなかったらしい彼女は、
ふわりと二人の前に進み出たを見て驚いた様子で声を上げた。
は思わず苦笑する。


「こんばんは、芙蓉姫」
「ちょっと、ビックリさせないでよ。居るのなら居るって最初から教えなさいよね」
「いやいや、普通に玄徳様の隣に居たんだけど。こっち側ちょっと暗いから見え難かった?」
「ええ、そうね。・・・ハァ、やっと慣れたと思ったけど、
突然だとやっぱり心臓に悪いわね、あなたの姿」
「はははっ!確かに、最初に比べればお前も随分普通にに接することが出来るようになったな」


芙蓉姫の反応に玄徳が楽しげに笑って言った。
は初めて彼女がの姿を見たときのことを思い出しつつ頷いた。


「ですねー、最初は幽霊だ悪霊だって凄い騒ぎでしたからね」
「しょうがないでしょう!宙に浮いている上に透けていたら誰だってそう思うわよ!」
「まぁね、も立場が逆ならそう思ってたって思うしね。今そうじゃないならいいけど」
「今はあなたを悪霊や幽霊だなんて思っていないわ。分かってるでしょう。
、あなたみたいに能天気な悪霊なんて居るはずないもの」
「ぶっ、能天気!」
「ははははっ!さすが芙蓉姫、容赦ないな」


玄徳の笑い声につられても思わず笑ってしまった。
芙蓉姫はこの城の中でが見える限られた人の中でも特に最後までに警戒、
と言うか怯えてた人だ。
彼女も含めて、今はの姿が見えてる極少数の人たちも最初の内は玄徳をのぞいて、
の存在を目にすることが出来ていなかった。
それがある日彼らにもが見えるようになったんだから不思議だ。
まぁ、あれが不思議これが不思議って話をしたらキリがないので、こういう場合、
は全部『これは夢だ』で片付けてるんだけど。
とにかく、芙蓉姫はかなりに怯えて最初は会話なんて出来たものじゃなかった。
今じゃこうして文句まで言い合える間柄になったんだから大した進歩だと思う。


「これは・・・何やら騒がしいと思えば・・・」


廊下の角を曲がったところで涼やかな容姿の少年が姿を見せた。
彼の背後には部下らしき兵が二人立って居る。


「あぁ、子龍か。っと、すまない、こんな時間に少し声が大きすぎたか」
「いえ、聞こえてきたのは玄徳様のお声ではなく、芙蓉姫のものでした。それから――」


言いかけて、彼はちらりとに視線を向けた後、背後に居た兵士を振り返った。
それだけで二人の兵達は彼が何を言いたいのか悟ったのか、小さく頷くと、
まず玄徳に頭を下げ、芙蓉姫と彼らの上司に短い挨拶をしてその場から去っていった。
この流れから言って、『騒がしい』と思われたのは芙蓉姫だけじゃなかったってことだろう。


「えっと、つまりの声も聞こえたってこと?子龍」
「ええ、そうですね。彼らには芙蓉姫の声しか届いていなかったと思われますが」
「それだと何だか私だけ騒いでたみたいじゃない」
「ふっ、仕方ないな。他の人間には彼女は見えないだけじゃなく、声も聞こえない」


玄徳の言葉に、子龍はいつものようにほぼ表情を動かさないままそうですねと頷いた。
この少年は子龍、三国志でも蜀の有名な武将の一人と言われてる趙雲のことだ。
この世界じゃ字が名前なのでここでは子龍と呼ばれている。
劉備を始め、有名な武将揃いのこの城の人々の中で、特に驚いたのはあの趙子龍がまさかの少年だったこと。
この小柄で年若い彼が『武人』として玄徳の下に仕えてることに最初は半信半疑だったけど、
今まで何度か彼の訓練を目にするチャンスが有って、納得してしまった。
一見華奢で非力そうに見えても彼は確かに『武人』なんだと。
歳の割りに表情が表に出ないこともあって、
内面同様少し大人びた空気を持ってるのもそのせいかもしれない。
因みに、言うまでもなく当然のように彼もの姿が認識出来る人間の一人だ。


その後達は人数が増えたことで立ち話をしても周囲に怪しまれないってこともあって、
少しの間だけ会話をして時間を過ごした。
皆朝が早かったり忙しかったりするってことでそろそろ部屋に戻ると言う頃に、
ある意味タイミングよくの意識は突然強引にその場から引き離された。
何の前触れもなく来るこの感覚は、だけどそれなりに慣れてしまった感覚でもある。



―――ピピピッピピピピッ



枕元ではデジタル式の目覚まし時計が鳴っている。
そう、現実の世界での起床時間が来たって訳だ。
目を覚ませばいつもと変わらない現実がある。
どんなに楽しくても、離れがたくても、にとっての現実はこっちだ。
引き摺ってしまいそうなほどハッキリした夢の記憶がベッドから這い出ることを鈍らせても、
それは一時的なこと。
ここがにとっての現実、それは変わらない。
は緩慢な動きでベッドから身を起こし、両手を天井に突き出して伸びをした。


さぁ今日も、の一日が始まる。


(続く)