あの日はいつもより少しだけ仕事が早く終わった帰宅途中で、
夕暮れの赤に染まった空をぼんやり眺めながら、
いつもとは違う道を歩いていた。
僅かに夜の紺色が混じり始めた空は、夕日の赤とのコントラストが本当に綺麗で、
あんなふうにじっくり空を眺めたのは本当に久しぶりだった。
「・・・・・・・・?」
不意に誰かに呼ばれた様な気がしてほんの一瞬足を止め、
上に向けていた視線をきょろきょろと周囲に向ける。
ハッキリと名前を呼ばれた訳じゃなく、何となくそんな気がしただけだった。
だけど辺りを見回しても特に人の気配はない。
最近は日本も随分物騒になったもんな、と、
そこでついさっきまでのんびり空を仰いでた気分は一気に現実に引き戻され、
は再び足早に帰宅する事にした。
まだ夜と言うには早い時間だけど、薄暗い人気のない場所で一人歩きってのは十分危険な域だろう。
普段と違う道を通っていることで、何だか妙に恐怖心が湧いて来た。
やっぱりいつも通りもう少し人通りの多い道を選ぶべきだったか、
なんて今更ながら思いつつ、歩く速度を一層上げた、その時だった。
―――――――ビュゥウッ。
背後から突風が吹き上げ、の髪がばさばさと舞い上がる。
その余りの勢いに咄嗟に目を瞑り、同時にスカートを必死で抑えた。
「―――――――」
「・・・っ!?」
ビュゥッ
風の鋭い音を耳にしながら、はまたしても誰かに呼ばれた様な錯覚を覚えた。
それが男なのか、女なのか、それどころか声と言うよりも音にも近い様な、
限りなく空耳としか言いようのない曖昧なものなのに、
にはそれがどうしても自分を呼んでいるんだとしか思えなくて。
突風が吹き止んだのと殆ど同時。
は、無意識に背後を振り返っていた。
瞬間。
ぐ にゃ り。
「っっ!!??」
周囲の景色がまるで大きなレンズを通したかのように酷く歪んで見え、
そのせいで足元がふらついた。
眩暈でも起こしたのかと思ったは、慌てて足を踏ん張る。
そしてもう一度だけぎゅうっと強く目を閉じると、はゆっくりと瞼を開けた。
「・・・・・・・・・・っ!」
「・・・・・・・・・・、・・・・・・・・・?」
「、!」
薄らとした視界が少しずつ光に慣れてハッキリする。
同時に少女の声がのすぐ近くで誰かを呼んでいるのが分かった。
だけど何故か、その『誰か』であるはずの名前が妙に耳に馴染んで聞こえる。
全く聞き覚えのない名前。
と言うより寧ろ、明らかに日本名じゃない。
それなのにどうしてか、自分の名前と同じ位に聞き覚えがある様に思えた。
「、大丈夫?わたしの声、聞こえているわよね?」
「・・・っ!?」
少女の声がさっきよりも近くで聞こえたかと思うと、腕を掴まれて顔を覗きこまれる。
は大げさにビクリと体を震わせてそれに反応した。
何だ、一体。
何なんだ、一体。
思考回路が混乱してて頭がよく働かない。
目の前にはを心配そうに覗き込むショートカットの綺麗な顔をした少女の姿。
さっきから彼女が口にしてる名前もそうだけど、彼女の服装も何だかかなり『中華』っぽい。
いやいやいや、いやいやいやいや、そんなことよりも・・・・・!
そうだ、そんなことよりも、ここは一体どこなのか。
突風が吹いた直後から周囲の様子が明らかにどっからどう考えてもおかしい。
おかしすぎる。
どこがなんてレベルじゃない。
もう全てにおいてどこもかしこも。
大体人気がなかったとは言え住宅街を歩いてたはずなのに、今、現在、
が居る場所は、どう見ても草原ってやつだ。
夜になりかけてた筈の空は真っ青に晴れ渡り、これまたどう見ても真っ昼間にしか見えない。
爽やかな風が吹き抜けて、辺りに生えている背丈の高い緑色の草を揺らす。
それから柔らかな太陽の日差しに土の匂い。
『住宅』なんぞと言う人工物は一切存在しない。
「・・・、もしかして気分が悪いの?わたしが無理を言って付き合わせちゃったから・・・」
「えっ・・・!?あの・・・」
ぽっかーーんと、茫然と周囲に目をやっていると、すぐ傍に立っている少女が再び気遣わしげな声でそう言った。
は視線を彼女に戻し、どう対応したものかと混乱した頭で考える。
本当に一体なにがどうなってるのか。
少女の方はを知ってる様だけど、当然の様には彼女を知らない。
―――――――――いや・・・、待てよ・・・。あれ?
彼女の事を見知らぬ少女だと思い込んでたけど、
よくよく見れば何となくつい最近何処かで見た様な気がしないでもない。
とは言え、こんな美少女、一度見ればそうそうすぐには忘れられない筈だ。
特にこれだけ親しげに話しかけられる様な仲になってるなら、普通は絶対忘れない。
ここは一体どこなんだ。
から、今度は『彼女は一体誰なんだ』に思考が切り替わり、ぐるんぐるんと考える。
元々混乱の極みにあった思考回路が更に迷走する。
「ごめんなさい、、もう戻りましょう。
錬師にも怒られちゃうかもしれないけど、わたしが悪いんだし仕方ないわよね」
「・・・・・・・・・・錬師・・・、錬師・・・!?・・・・・え"っ!?」
その名前にはハッキリと聞き覚えが有った。
そう、そしてその名前はが目の前の彼女をつい最近目にしたってことと凄く深く関係してる。
だけど、そんな馬鹿な。
あり得ない。
どう考えても馬鹿げてる。
既にあり得ないような信じられないことが起きてるのは分かってても、
今自分の頭に浮かんだ内容が余りにも幼稚でぶっ飛び過ぎてて思わず激しく否定する。
その一方で、すぐ傍に立っている少女を見れば見る程それがピタリと当てはまるようにも思えて。
「・・・・・尚香・・・・・・・・・・、様」
呼んだ名前に敬称を付けたのは無意識だった。
が口にしたその名前は、実在した人物のものだけど、同時に架空の人物のものでもある。
数年前からがすっかりハマってしまった中国の三国志を舞台にしたアクションゲーム『真・三國無双』。
孫尚香は三国時代に実在した女性でもあり、そのゲームの中に登場する『キャラ』でもある。
ついさっき目の前に居る少女が口にした『錬師』と言う名前は、その尚香付きの女官のことだ。
彼女も尚香と同じく三国時代に実在した女性であり、ゲームに登場した『キャラ』でもある訳だけど、
尚香にしろ錬師にしろ、今現在は居る筈のない人達だ。
特に今の目の前に居る少女は画面越しに見た衣装そのままの格好をしていて、
その上その容姿も『キャラ』が等身大で飛び出して来たとしか思えない姿をしてる。
あり得ないあり得ないと全力否定する一方で、余りにも忠実に再現されたその姿に唖然とするしかない。
もしかして気付かない間に何かの撮影かイベントの場所に迷い込んでしまったんだろうか。
なんて、尤もらしい、現実っぽい理由を無理やりに考え出すも、
それこそ余りにも不自然すぎることも分かっていた。
「何?。ねぇ・・・あなた、やっぱり顔色が悪いわ・・・」
「っ・・・」
の呼びかけに応えた少女がの体を支える様に体に腕を回して来る。
彼女は、の呼んだ名前を極自然に受け止めた。
そして、さっきから間近に有る顔は、どこからどう見ても孫尚香にしか見えない。
くらり。
今度は地面が歪んだ訳じゃなく、自身が本当に眩暈を起こした。
急激に、意識が遠のいて行くのが分かる。
の体に回していた腕に咄嗟に力を込めた少女がを受け止めてくれた。
彼女は必死で誰かの、いや―――――――――――――。
「!!」
の名前を呼んでいた。
(続く)