意識が薄っすら浮上し、それと一緒にゆっくりと目を開けて数秒。
はぼんやりと自分の部屋の天井を眺め、
それからハッとしてガバリと勢い良く体を起こした。
そして枕もとの携帯に表示された時間を確認した瞬間、唖然とする。
現在の時刻は午前10時半。
完全に会社に遅刻してしまっている。
どう考えても寝坊のレベルを大幅に超えた状態で。
いつもなら寝坊してもギリギリで間に合う範囲には会社に飛び込んでいる。
と言うかそう言う場合は大体一度目が覚めたのに、
自分がぼんやりし過ぎてうっかり二度寝してしまった結果ってことが多い。
なのに今回に限って一度も目が覚めずに今まで寝入ってたなんて、これいかに。
それ以前に毎日同じ時間に鳴るようにセットしてある筈のアラームが鳴った様子の無いことも気になる。
「っ!!」
だけど今はそんなことを悠長に考えてる暇はなかった。
とにかく急いで準備を済ませて家を出なくちゃならない。
いや、その前に会社に連絡すべきか。
と言うか、きっと携帯にも何度も電話がかかってきているに違いない。
ああ、そうだ、家にも電話があってるかもしれない。
母はこの時間仕事でもう家を出てる筈だから、
そうなると家電だって鳴りっぱなしだっただろうし、それでも気付かずに寝てた自分に呆れる。
寝坊の程度の酷さのせいでテンパり過ぎたは無意味にドタバタしつつ、
もう一度携帯に視線を向け、それを手に取った。
だけどそう言えばさっき携帯を見たときもそうだけど、
の携帯に着信通知が来てる様子は全く無かった。
いや、待て、それ以前にこれは誰の携帯だろう。
手にした携帯をじっと見つめ、は思わず眉間に深くしわを寄せた。
さっきは慌てて時間を見ることしか考えてなかったけど、この携帯、
色、形、機種、どれをどうとってもが使ってたものとは似ても似つかない。
全体的にの好みに近いと言うか、もこういう物を選ぶだろうなと言う感じではあるけど、
この場合それは関係ない。
どう見てもこれはの携帯じゃない。
つまり、いつの間にか間違えて誰かの携帯と自分の携帯を取り違えたってことだろうか。
それでアラームも鳴らなかったと、そう言うことだろうか。
いやいやいや、だけど取り違えるも何も、は昨夜寝る前にも散々携帯をいじってた。
その時まではいつも通り間違いなくの携帯がここにあった筈だ。
「・・・・・・」
携帯のことも勿論だけど、この室内。
どう見ても自分の部屋だってのに、何となく妙な違和感があるように思えた。
最初はそれが何だかハッキリ分からなかった。
の部屋とは間取りが違うとか、家具の配置が違ってるとか、そう言うパッと見で分かる違和感じゃない。
だけどこうしてよくよく見れば、
室内のあちこちに自身が買った覚えのない雑貨や化粧品なんかが目に付く。
「ー!」
「・・・・・・・・・」
「!!!」
「えっ!?」
最初の寝坊したと焦ったときとは全く違う種類の動揺が、
じわじわとを捕らえかけたその時、
部屋の外の階段の下から怒鳴るようにを呼ぶ母の声が聞こえた。
は慌ててベッドから降りると、部屋を出る。
まさかこの時間に母さんが家にいるとは思わなくて、驚きながらも少しホッとする。
もしかして今日は母はパートの日じゃなかったんだろうか。
いつもなら次の日が休みの場合は大抵一言教えてくれるんだけど、
単にに言い忘れてたたのか、別にいちいち伝えることでもないと思ったのか。
何にしろ母さんに聞けば携帯のこともの部屋にある物のことも少しは分かるかもしれない。
ああ、それから何で起こしてくれなかったんだって文句も言うとこか、ここは。
「!!あんたねぇ夏休みだからって遅くまで寝てんじゃない!
さっさと顔洗って来なさい!!」
の顔を見た途端、母さんはそうを叱り付け、
またキッチンに向かって歩き始めた。
「・・・は?夏休み?」
は思いも寄らない母からの台詞に、思わずぽかんとした表情を浮かる。
夏休みなんて、何を言ってるんだ、この人は。
は既に社会人だ。
当然学生さんが夏休みに入った今の時期も土日以外はお仕事に励んでいる。
そんなこと、説明するまでもなく母は知ってるはずなのに、何をのたまってるんだろう。
「明日からワカ君の所で働かせて貰うんだから、あんたボケっとして迷惑かけるんじゃないよ!」
「は?いや、何の話?ワカ君て誰?てか働かせてもらうって・・・」
「まだ寝惚けてる!?ったく、だから調子に乗って夜更かししないって言ってるのに、あんたってコは・・・」
いやいやいやいや、いやいやいやいや。
ぶつくさと文句を垂れながら母さんはの質問を無視してキッチンへ向かう。
当然のようにには母が何のことを言ってるのか全くちっとも分からなかった。
寝惚けてるとか、そう言う問題じゃない。
誓って言うけど、忘れてる訳じゃなくて、はそんな話を母とした覚えはない。
いや、『そんな話』がどんな話かも分かってない時点でもう意味が分からないけど。
大体は既に社員として仕事をしてる会社があるんだから、
今更別の場所で働く余裕なんかある訳がなく。
携帯のことと言い、部屋のことと言い、目が覚めた10分前から妙なことが続きすぎてる。
そう、が起きてたった10分程度しか経ってないのに。
はそこで足を止め、家の中をキョロキョロ見回してみた。
家の間取りや家具の配置は間違いなく住み慣れた我が家。
だけど、さっきのの部屋と同じように、
よく見ると一体いつ購入したんだろうと思うものも少なくない。
どれもこれも、少なくとも昨日まではうちになかったものだ。
単に今までが気付かなかったにしては数が多すぎるし、
部屋にある自分の私物まで気付かないなんて不自然すぎる。
さっきまでじわりじわりと進んでたの中のパニックは、
今は結構な速度で進んでいた。
「!あんたいつまでそこに突っ立ってる気!?顔洗ってご飯食べて!」
「・・・うん、分かった」
を叱り飛ばす母の声は間違いなくいつもと同じものなのに、
そしてが目を覚ましたこの家は間違いなく我が家のはずなのに、
はそれら全てに得体の知れない不安と違和感を覚えずにはいられなかった。
それから顔を洗ったが一旦部屋に戻って着替えを済ませようと洗面所を出ると、
待ち構えていたようにまた母さんが声を掛けてきた。
「ほら、あんたに電話。携帯にかけたけど繋がらなかったからって」
そう言って差し出されたのはうちの電話の子機だ。
もしかして会社から電話かもしれない。
こんな時間まで連絡しなかったからさすがに何かあったのかって掛けてきたとか。
母の謎の言葉とか我が家の謎の異変とかは置いといて、
とにかく本来あるはずの『日常』を引っ張り込んで来たくて、は無理やりそう考えた。
本当は、もう半分以上その答えが間違ってることに気づいてはいたけれど。
でも敢えて、母さんに電話の相手が誰なのかは聞かずに子機を受け取る。
この10分ちょっとに起きた事は本当に単にが寝惚けてただけかもしれない。
そうだ、そうにちがいない。
「もしもし、お電話変わりました、です」
『ぶっ!何いきなりそんな畏まってんの!私、私だよ!』
ボタンを押して保留を解除し、緊張気味に電話に出たに、
電話口の相手は笑いを含んだ声でそう返事をした。
瞬間的にの全身からホッと力が抜ける。
よし、やっぱが寝惚けてただけか!!
相手はの会社の仲のいい同僚だ。
会社から電話があるなら上司か先輩からだろうと思い込んでたし、
もっと早い時間に連絡があってるだろうとは思ってたけど、
こうして電話があったんだからその辺はもうこの際問題じゃない。
あの何とも言えない得たいの知れない不安から解放された瞬間だった。
寝惚けてたことを喜ぶなんておかしな話だが、寝起きドッキリじゃ済まされない状況を脱せそうなのはありがたい。
とにかく、電話をくれたのが同僚とは言え、きちんと寝坊したことは言っとかなきゃならない。
ご飯なんて食べてる場合じゃないから、電話切ったら全力で準備して会社に行こう。
毎朝うんざりしながら仕事に向かってたけど、今日は寝坊したことの謝罪の意味も含めてばりばり働こうという気になっている。
「ごめん、自分でも信じられない位寝坊した。実は10時半に目が覚めてさ、今から急いで行くから!」
『え?別にそんな急がなくてもいいよ。ただ確認しようと思ってかけただけだし』
「はい?え?急がなくていい・・・?」
『だって待ち合わせの時間までまだ1時間あるし、今11時だから』
「待ち合わせ・・・」
全く噛み合わない会話にはまた呆然として空中を見つめた。
何てことだ、お前もか。
と言いたくなる。
これじゃあまるでついさっきの母とじゃないか。
電話口の彼女とは確かに仲がいいし、休日に約束して一緒の遊びに行ったことも何度もある。
だけど今日は平日だ。
当然のようにも彼女もお仕事の日。
待ち合わせて遊びに行く約束なんぞする訳もなく。
『あー!、もしかして約束の時間忘れてる?やっぱ念の為に電話して良かったわ。
ほら、こないだ、12時にいつもの公園でって言ったじゃない』
「いや、そうじゃなくて・・・。あの、か、会社・・・」
『会社ぁ?あぁ、大学のことか、夏休み入っても大学一回も行かない訳にはいかないけど、
今日はその話はなしね。イケメン揃いの店で目の保養すんだから』
「大学?何、大学って・・・夏休みって、いやいやいや、そうじゃないよね、は」
『とにかくその話は後々!約束の時間に遅れないでよね!そんじゃ、また後で!!」
そこで友人からの電話は一方的に切れた。
は再び子機を握ったまま呆然と宙を見つめる。
目を覚まして30分ほどしか経過してないこの短時間で、は何度目かのパニっくに陥って居た。
(続く)