例えばあの『冥土の羊』がが思った通り何かのイベントや企画の一環で出来たもので、
目を疑うレベルに完成度の高いコスプレイヤーさんが存在したんだとか、
ドラマの撮影現場に紛れ込んで半端ない役作りの役者さんに出会ったんだとか、
どんなにムチャクチャな理由でもいいから現実的な理由があれば良かったのに、
とは心底願った。
だけどそんな願いも空しく、あのカフェは本当に普通にあの街に存在するメイド・執事喫茶店だった。
そして明後日から、と言うか既にあれから日付を越して朝を迎えた今、
明日からはあそこでバイトを始めることになると言う。
一晩眠って目が覚めればいつも通りの今までのの日常に戻って、
『夢かー☆』と言うのを大いに期待していたは、もう呆然とするしかなかった。
のろのろと朝食を食べて出かける準備をし、微妙に違和感のある我が家を後にしたは、
それでも諦めきれずに昨日友人と行った『冥土の羊』の前まで足を運んで確認することにした。
そんな確認は余計に自分にダメージを与えるだけなのは分かってた。
と言うか寧ろそこに向かうまでの道のりでも、
見知らぬ場所になってしまった街にも精神的ダメージを受けるのは目に見えてる。
分かっちゃいるけど、どうしても確認せずには居られない。
の家のある住宅街を抜け、大通りに向かうと、案の定、
そこは全く見慣れないショップやビルばかりだった。
昨日見たといえば見たけど、結局それを確認しただけ。
思ってた以上のダメージを受けつつ、はふらふらとその街を進む。
『冥土の羊』は繁華街にある訳じゃないからわざわざここを通る必要もなかったんだけど、
昨日友達と通った道そのままを辿ることにした。
本来なら10年以上前にここに越してきて、住み慣れた場所のはずの街。
だけどここは今のにとって見知らぬ街になってしまってた。
『架空』である街が、『実在』してしまってる。
――――ドンッ
「っ、あ、すみません!」
ぼんやりし過ぎてすれ違い様に他の通行人と方がぶつかってしまった。
二、三歩よろけた後、は慌てて相手に頭を下げる。
その瞬間に、ふわりと緑色の何かがの視界で揺れた。
「っと、俺の方こそすみません、大丈夫でしたか?」
「あ、いえ、ちゃんと前見てなかったのはの方――――」
言いかけて、正面に立つ青年の顔を目にした途端、どくりと、の心臓が大きく跳ね上がった。
「あ・・・」
「・・・?どうかしましたか?あ、もしかして思った以上に強くぶつかっちゃったかな」
緑色の長髪に独特の雰囲気を纏ったその人は、そう言って気遣う様な表情を浮かべた。
は引きつる口元をどうにか無理やり笑顔の形に整えて、必死で平静を装う。
「へ、平気です・・・!あの、じゃあこれで・・・!本当にすみませんでした」
「いえ、平気なら良かった。じゃあ」
何処か儚げにも見える柔らかな笑顔を浮かべ、彼は軽く頭を下げるとの傍を離れて行った。
も極力自然に見える形でその青年とは逆の方向へ足を向ける。
の心臓はばくばくと凄い勢いで鼓動を刻んでいた。
もう一度振り返って彼の背中に視線を向けそうになるのをどうにか堪える。
これが、偶然と言えるだろうか。
たった今がぶつかってしまったあの青年の名前を、きっとは知っている。
そんな表現はおかしいけれど、恐らくほぼ間違いないだろう。
彼の名前は『ウキョウ』だ。
そして当然のようにそれは、がプレイしてたあのゲームの登場人物の一人だった。
◇◆◇
『ウキョウ』に会ってしまった以上、もう『冥土の羊』に行く必要性を全く感じない。
それ以前に分かりきってたことではあるけど、
ウキョウとの出会いは、これ以上になく決定的に今の状況を突きつけられた気がした。
二次元うふふ的な夢を見てるんだと言うオチへの望みは未だに捨てたくないけれど、
こうなると認めるしかない。
――――――――ここはにとっての異世界だってことを。
正直どこまで二次元に入れ込んでんだとか、さすがに脳内ヤバくないかとか、
自分にツッコミを入れたいことは盛り沢山だ。
だが、ツッコミを入れたところでどうしようもない。
そうやって今の状況を自分の二次元への傾倒っぷりのせいに出来るならある意味幸せだ。
でも残念ながらこれは現実らしい。
少なくともが以前の世界のベッドで目覚めて、さっき考えたような『夢オチ』が起きない限りは。
今も頭の中は混乱しっぱなしだけど、何だか自棄気味に冷静に考えようと言う気も起きてきた。
にはゲームのヒロインのように協力者は居ないんだから、自分でどうにかするしかない。
と言っても、割り切れてなんか全く無いけれど。
「ん?げっ!!!」
―――――ドゴッ。
考え事に浸りすぎて、ふと顔をあげると超の付く至近距離に電柱が迫っていた。
反射的に避けるより早く、既に踏み出していた足が進み、はそのまま激突する。
しかも顔面、と言うか鼻っ柱を激しくぶつける形で。
おかげで相当な衝撃を受け、同時に鈍い痛みが襲ってきた。
「・・・〜〜〜っっっっ!!!!」
その場で鼻を押さえて涙目になりながら、声無き悲鳴を上げる。
これは、痛いなんてものじゃない。
瞬間的に息が止まった。
久しぶりにこんな痛みを体験したかもしれない。
周囲を気にする余裕も無く、はそのまま痛みと格闘する。
すると、今度は不意にそこで掌をぬるりと何かが濡らした。
何となく思い当たることがあって、慌てて手を広げて確認すれば、
案の定、そこには鮮やかな赤。
鼻血だ。
「うそ・・・・・・」
まさかこの歳になって電柱に激突した上に鼻血を出すなんてどんな間抜けだ。
だけど今はそんなことを考えてる場合じゃない。
鼻の痛みもまだ半端ないし、続いてるけど、とにかく鼻血を止めるしかない。
洋服を血染めにするのだけは避けたかった。
は慌ててバッグの中にあるハンカチを引っ張り出し、
掌を急いで拭ってからそれで鼻を覆い、上を向いた。
ティッシュも持ってはいるけど、幾らなんでもここで鼻にティッシュを突っ込んだりは出来ない。
「それは典型的な間違った対処法だな。
取り合えず上を向くんじゃない。鼻血を止めたいのならそれでは逆効果だ。
その体勢では血が鼻から口に逆流して吐き気を催すことになるだけだぞ。
鼻血を止める所か余計な苦痛を加えるだけで、非効率的過ぎる」
「はへっ!?」
不意に背後からぬっと長身の影が近付いてきたかと思うと、
酷く冷静な低い声がに向かってそう言った。
瞬間的に状況が把握できず、は間抜けな声を上げる。
と、今度はふわりと優しげな手がの肩にそっと触れてきた。
「ケン、いきなりそんなことを言っても訳が分からないよ。
君、大丈夫?ここだと通行の邪魔になるから、すぐそこの隅に移動しようか。
あ、上は向かないでね」
「えっ?えっ?」
柔らかく艶のある声をしたもう一人の男性はそう言ってに移動するように促す。
それと同時に鼻先を香水の臭いが掠めた。
突然表れた二人にあわあわしつつもは彼らに従い場所を移動する。
周囲には人目があるし、状況から言ってこの人達は親切で声をかけてくれたんだろう。
だとしても、凄まじく恥ずかしいんだけど。
恐ろしい羞恥プレイとしか思えない。
でも今は、彼らの言う通り、他の通行人の邪魔にならないようにするべきだと思った。
その間も鼻血はのハンカチに真っ赤な色を広げていく。
「ここならいいだろう。まずは楽な体勢で座って、体を少し前に傾けておいた方がいいな」
は彼に言われるままに、ゆっくりとその場に腰を下ろした。
「あ、あの、すびば・・・――――――――――」
ぜん。
と言う言葉を発する前に、は呆然とを見下ろす長身の男性の顔を凝視した。
が座ったことで、元々あった身長差のせいもあり、かなり高い位置に相手の顔がある。
それでも彼がどんな外見をしているのかはからもよく見えた。
黒を基調にした洋服の一部は緑色。
そして眼鏡の奥の如何にも神経質そうな瞳が無愛想な様子でを見下ろしている。
更にさっきもう一人の彼から『ケン』と呼ばれてたことから言っても、
これはもう間違いない。
今を見下ろしてるこの男性は『ケント』だ。
そしてもう一人、彼の名前はほぼ確実に『イッキュウ』で、
ケント以外の人間は彼本人がこの名前を嫌ってることもあって『イッキ』と呼んでるはず。
ああこれで、昨日から一体何度この衝撃を味わってるだろう。
でも今はそのショックと向き合うより、この間抜けな状態をどうにかすべきだ。
数秒の間彼の顔を見て固まっていると、鼻血がダーっと滴り落ちてきた。
「ぶふっ」
「聞こえなかったか?上は向くなと言っている」
「だから、初対面の女の子にそんな言い方をするなよ、ケン。怯えるだろ。
ごめんね、いきなり声を掛けちゃったから驚くのも無理ないよ。
君が電柱にぶつかる所を丁度目にしちゃって、・・・ぷっ・・・・、あ、いや、ごめん・・・。
あー・・・それでね、お節介だとは思ったんだけど、声を掛けたんだ」
「電柱と言うのは何故ああも人の進路の妨げになる場所にあるのか、理解に苦しむな」
「・・・彼女とお前を一緒にするなよ」
最悪だ。
色々な、本当にあらゆる意味で。
今なら羞恥心で死ねるかもしれない。
突然(ある意味知ってる場所とは言え)おかしな世界で目が覚めて戸惑ってたら、
まさかイケメン二人の前で電柱に激突して鼻血吹くなんて。
羞恥プレイという名の拷問なんだろうか、これは。
カフェの店員として顔を合わせた他の彼らや、
一時間くらい前にすれ違いざまに肩がぶつかったウキョウの時もそりゃあ当然驚くなんてレベルじゃなかったけど、
それにしたってこのダメージは半端ない。
何で、何でよりによってあんなシーンでこの二人が登場するんだ、あり得ない。
それでなくともはイケメンは寧ろ遠目で眺めて満足してたい人間なのに、もう本当に泣きたい。
画面越しのやり取りが目の前で繰り広げられてることへの感激よりも、
今の自分の無様な姿への落ち込みようの方が格段に上だ。
もうここまで来るとここが異世界で、
しかもがつい最近までプレイしてたゲームそのままの世界だと言う、
ぶっ飛んだ事実を受け入れるしかない。
だけど、せめて少なくとももっと普通なシチュで出会わせてくれれば良かったのにと激しく思った。
ケントとイッキのおかげで段々と鼻血自体は止まり始めていたけど、
は暫くの間二人の顔をまともに見られそうになかった。
(続く)