ぱらぱらと小雨が降り始めた。
空を見上げると、隙間なく雲が敷き詰められ、星も月も完全に隠れてしまってる。
そう言えば今日は遅い時間から雨が降り始めると予報で言ってたかもしれない。
こっちに着く前に降り出さなくて助かった。
ぼんやりとそんなことを考えながら、
はその視線を今度はすぐ目の前にあるマンションのエントランスに移した。
丁度その時、長身の人影が、慌てた様子でこっちに向かって走ってくるのが見えた。
急にあんな電話したから驚いてんだろうな。
そのことを申し訳なく思いつつ、それでも思わず口元に笑みを浮かべてしまう。
「!」
の姿を見つけた彼が自動ドアが開いてすぐに名前を呼んだ。
余程慌てて部屋を出てきてくれたのか、彼は軽く息を切らしていた。
いつもは完璧に整えられた綺麗な銀髪が今は少し乱れてる。
「こんばんは・・・、イッキさん。てか、すみません、夜遅くにいきなり押しかけて」
「それは一向に構わないんだけど、マンションまで来てるって聞いた時はビックリしちゃったよ」
「あはは、さすがにストーカーめいてましたかね」
「僕も似たようなことやったことあるでしょ、それなら僕の方が立派なストーカーだよ。
ただ、こんな時間に女の子が一人で出歩くのは危ないからね、次からは僕に迎えに行かせて」
「心配させてすみません。・・・次からは気を付けます」
「うん、分かってくれたならいいんだ。じゃあ、早く部屋に戻ろう。
雨も降り出しちゃったみたいだし、ここは寒かったでしょ」
言って、イッキは極自然な動作での手を取った。
もそれに頷いて、達は揃ってエレベーターに向かって歩き始める。
の手を握ったイッキの手は、相変わらず大きくて温かかった。
イッキを目にして、声を聞いて、彼に触れられて、
その度最近胸の奥にあった訳の分からないもやもやが薄れてく気がする。
ここのところ大学でもバイトでも、そしてそれ以外でもほぼ毎日イッキに会ってるのに、
それでもまだ足りないなんては本当にどうかしてる。
付き合い始めた当初に比べれば、周囲の状況は随分良くなってる。
にも関わらず、特にここ最近は何故だか漠然とした恐怖感がの思考につきまとって離れてくれない。
イッキと付き合う上で最大の障害になるFCのコ達はリカの協力で抑えられてるし、
たまに小さなトラブルは起きてるものの、
大体は大事になる前にどうにか収まってる。
それはがこの世界でリカの親友だったことが一番大きくて、
そのも夏休みが終わった今も元気に生活してる。
彼女は今ウキョウと恋人同士になって凄く幸せそうだ。
ウキョウもも、世界に消されることなく、はでイッキと順調に交際を続けてる。
そう、もうホントに、嘘みたいに八方丸く収まってる。
今、誰かに幸せなのかと聞かれれば、間違いなく幸せだと答えられる自信がある。
それなのに、ふとした時に妙な不安に駆られるのだ。
これはあれだろうか、よく言う、『幸せすぎて怖い』的な。
そんなことをリアルにのたまえる日が来るとは思いもしなかったけど、そうなのかもしれない。
余りにも幸せなこと尽くしで、だからこそこの幸せが欠けてしまう時が来るのが怖いなんて、
考えても仕方ないことを考えて不安になる。
例えば、今、ある朝突然、元の世界に戻ってしまったら―――
「」
「はい?っ!?」
エレベーターに乗り込んで、イッキに名前を呼ばれて返事をしたその瞬間。
エレベーターのドアが閉じたのとほぼ同時に彼がを両腕で抱きすくめた。
「イッキさん?」
「ん?」
「いや、あの・・・急にどうしたんですか?」
「・・・うん、ちょっとね、部屋まで君に触れるの我慢できなくて。
無性に君を抱きしめたくなったんだ。
・・・っていうか、君が電話くれた時からこうしたくて堪らなかったんだけど」
そう言いながら、イッキは体を傾けての肩口に顔を埋めた。
それだけのことで、さっきまで肌寒さを感じていたの体が、急激に熱を生み始める。
かぎ慣れたイッキの香水がふわりと香る。
彼の銀髪がの頬に触れた。
「迷惑じゃないかと思ったんですけどね・・・。こんな時間に・・・」
「迷惑な訳ないでしょ。寧ろ凄く嬉しかったよ。君から『会いたい』なんて電話くれるなんて、
しかも会いに来てくれるなんてさ」
「・・・・・・」
が家を出る前はもう少し早い時間だったけど、今は既に深夜0時を回っている。
ここに押しかけてしまえば、終電に間に合わなくなるのは目に見えてた。
それでも、例の訳の分からない不安の波が予告なく押し寄せてきたせいで、どうしても一人で居たくなくて、
居ても立ってもいられなくて気付いたらは行動を開始してた。
まぁ、この近くに来てからも、イッキに電話するかは散々迷ったんだけど、
ここまで来て今更帰るなんてそれこそ落ち込み気分を加速させるだけだと、
思い切って彼に電話をしたのだった。
―――もしもし、?ふふっ、珍しいな、こんな時間に君から電話くれるなんて。
・・・だって君、いつもはメールで済ませちゃうでしょ。
どうしたの?僕の声が聞きたくなった?・・・、ふっ素直だね。
・・・でも困ったな、そんなに素直に会いたいなんて言われちゃうと、
今すぐ僕の方から会いに行きたくなっちゃうんだけど。え?今、来てるの!?僕のマンションの前!?
ちょ、ちょっと待って、それって一人・・・、あー分かった!そこに居て、すぐ迎えに行くから・・・!
いつもみたいに、気取った気障な台詞を口にするイッキを笑い飛ばす余裕なんてなかった。
ただ会いたくて、顔を見たくて、声を聞くだけじゃ我慢できなくて。
漫画じゃドラマじゃあるまいし、こんな時間にいきなり会いたいなんて迷惑じゃない訳ない。
面倒くさい女だなと自覚しつつ、
だけどすぐに迎えに行くと言ってくれたイッキの言葉がただ嬉しかった。
しかも彼は今、の我が侭を嬉しいと言ってくれた。
「そういうこと言うと、図に乗りますよ」
「ふぅん?ふふっ、どんな風に?」
「またいきなり電話したりとか」
「言ったでしょ、それなら大歓迎だよ」
「・・・押しかけたりとか」
「それも僕としては願ったりだけどね、でもさっきも言ったけど、その場合は僕に迎えに行かせてね」
を抱きしめたまま、イッキはクスクス笑いながら耳元に唇を寄せた。
彼の温い吐息がの耳朶を撫でる。
「・・・今夜は、イッキさんの部屋に泊めて欲しいとか、言い出すかもしれませんよ」
「って言うか、君は泊まらないつもりでいたの?それこそ僕が許すと思ってた?」
イッキはの耳に唇を軽く押し当て、低く囁くようにそうに問いかけた。
は自分からも両腕を伸ばし、それを彼の背中に回す。
「終電には絶対間に合わないだろうから、タクシーで帰ろうかと思ってました」
「ダメだよ、帰さない。僕に会いたかったんでしょう?
だったら今夜はずっと僕の傍に居てくれなきゃ」
「・・・イッキさ・・・」
ふわりと。
薄く形のいい唇がの唇に重なった。
やわらかく押し当てられただけのキスを一度、
それからの様子を確認するようにイッキは瞼を開けて間近でと視線を合わせ、
その後すぐに唇で弧を描くと、再びそれをのものと重ねた。
独特の弾力を持ったイッキの舌がの口内に侵入し、それがねっとりとその周辺をかき回す。
の舌と彼の舌が縺れ合い、それから少しずつお互いの唾液が量を増していくのが分かった。
「は・・・、イッキさん、ここ・・・エレベーター」
そうだ。
すっかり頭の中から飛んでしまってたけど、ここはまだイッキの部屋じゃない。
エレベーターの中だ。
彼の部屋のある階に止まってるのかどうかさえは確認してなかった。
今の時間、エレベーターを利用する人間は少ないかもしれないけど、
エレベーターを使う人が絶対にいないとは言い切れない。
「・・・ん、そうだね・・・。だけどもう少し、もうちょっとだけ・・・」
お互いに唇を殆ど離さないまま、会話をして、そこで再びイッキはの唇を塞いだ。
そしてまたぬるりとの口内に入り込んだ舌が、さっきよりも一層執拗にその周辺を這い回る。
気付けばの背中はエレベーターの壁に押し付けられてて、
自分も夢中になって彼のキスに応えてしまっていた。
くちゅり、ちゅくりと、お互いの唇の奥から粘着質でいやらしい水音がする。
イッキの長い脚がの太ももを割るように押し入り、お互いの密着率は益々高まってた。
ヤバい。
この状況は幾らなんでもヤバすぎる。
彼のスイッチはもう殆ど入りかけてるようだ。
イッキの片手がゆっくりとわき腹周辺をなで上げ、服の上から胸を持上げる感触がした。
「っ!」
「・・・っ、ごめん。さすがにこれ以上はここじゃ無理だよね」
ほんの一瞬の体が固まったのを感じ取ったのか、
苦笑を漏らしてそう言ったイッキは、そこでの肩を抱き寄せた。
「さてと、今度こそ本当に僕の部屋に行こうか。・・・ごめんね、嬉しくて暴走し過ぎちゃった。
今夜の僕は結構飢えた狼かもしれない」
「・・・何かイッキさんと飢えた狼ってイメージ結びつかないですけど」
「ははっ、今の僕を見てそう言えるの?だったらもっとエンジンかけちゃっても大丈夫かな」
冗談交じりにそう口にし、イッキはを連れてエレベーターを降りて彼の部屋に向かう。
いつも通りのフリをしてたけど、内心心臓の音はまさに爆音状態になっていた。
それでも、それが心地いい。
これだけ心臓がばくばく言ってたら、考えても仕方ないことで一人で落ち込んでる暇なんてなくなる。
何より、今、目の前に彼が居るんだと分かり易く実感出来る。
「ねぇ、。先に確認しておくけど、まだ帰るつもりで居たりしないよね?
今日は朝まで・・・、ううん明日一日一緒に居てくれるんでしょ?」
「へ!?・・・あ、いいんですか?」
「それをこっちが聞いてるんだけどな」
彼は自分の部屋のドアを開けながら、どうなの?と再度に訊ねた。
勿論、返事なんて決まってる。
最初から、選択肢なんてものは存在しない。
答えはひとつだ。
が口を開きかけたところで、あ、と、イッキがそれを遮るように言った。
「もうひとつ言っておくけど、僕の部屋に入ったら・・・ゆっくり寝ることは諦めてね。
エレベーターで途中で我慢しちゃってるから・・・、今の僕は君に触れることしか考えてないよ」
周囲に人影はないのに、まるでひそひそと内緒話をするように彼はに耳打ちした。
「っ!」
「じゃあ、君の返事を聞かせてくれるかな?」
そういって微笑んだイッキは何だか妙に自信に満ちてて、そして色っぽくて、
ほんの数秒、はそれに見蕩れてしまった。
イッキは部屋のドアを開けて、の返事を待ってる。
きっとの答えなんて、彼だって分かってるはずだ。
「部屋に入れてください」
「・・・かしこまりました、お嬢様」
ニヤリと笑ったイッキが、冥土の羊の時の執事のように恭しくに頭を下げる。
思わず吹き出して笑いを堪えつつ、は彼が差し出してきた手を取った。
少なくともこの部屋に居る間は、あのもやもやとした形のない不安に捕らわれることはない。
元の世界に戻ることを願ってた最初の頃には想像もしなかったことだけど、
今はここがの居場所で、イッキは確かに現実のの恋人なんだから。
彼がこうして傍に居てくれる間は、それを実感していられる。
「さぁ、おいで」
を部屋に招きいれ、イッキはの額に軽くキスをする。
そしてそのまま彼は静かに部屋のドアを閉めた。
(END)