成瀬の部屋に到着すると、
彼はをソファに座らせてグラスに入った冷たいグレープフルーツジュースを出してくれた。
前にグレープフルーツジュースが好きだと言ったのを覚えてくれてたらしい。
室内にはテニス関係の本やお洒落なインテリアなんかが飾ってあり、
嫌味のないさっぱりした爽やかさと趣味の良さを伺わせる彼のイメージにぴったりの空間だった。
そういえば、彼とは前よりかなり仲良くなったと思うけど、何度か部屋の前で立ち話をした程度で、
こうして部屋の中まで上がらせてもらうのは初めてだ。
今日の成瀬の態度も含めて、何だか今更ながら二人きりで彼の部屋に居ると言う状況に、
は変に緊張してしまっていた。
がお礼を言って成瀬の出してくれたグラスに口を付けた後、
彼はさり気ない仕草での隣に座って苦笑を浮かべて言った。
「ごめんね、。ここ数日ずっとキミの方から僕の所に来てくれていたのに、
ちゃんと話が出来なくて」
「いや、・・・避けられてたんじゃないならいいや」
「え?」
「なんでもない!こっちの話だ」
思わず零れた本音を隠すため、は慌ててそれを誤魔化す。
今の成瀬の台詞だと、ハッキリは分からないけど、多分、を避けてた訳じゃないだろう。
それが分かっただけでは心底ほっとしてる。
とは言え、それを素直に本人に話すつもりは全くない。
って訳で、は急いで話題を変えることにした。
「成瀬」
「なに?」
「この間、・・・4日前にも言ったけどさ、もう一回謝りたかったんだ。
オレに付き添って3限サボることになったせいで、ジイさま先セから小言と反省文食らったやつ」
慌てて変えた話題じゃあるけど、これはにとって軽い話じゃない。
の言葉に、成瀬は少しだけ驚いた様子を見せた後、ふっと瞳を柔らかく細めた。
「なんだ、そのことか。・・・それならもう本当に気にしなくていいんだって。
キミは元々僕に授業に戻るようにって何度も言ってくれたじゃないか。
でもその後も勝手にあの場に残ったのは僕だ。だから気にしないで」
4日前の、あの時とは違い、彼は真っ直ぐにの視線を受け止めてそう言ってくれた。
それだけで嬉しくて、安心する。
は軽く肩の力を抜くと、素直に頷いた。
「OK、分かった」
「うん」
「じゃあ、次は・・・てかこっちが本題だけどさ、成瀬の話ってなんだ?」
質問した後、はグレープフルーツジュースをふた口ほど飲んで、一旦そのグラスをテーブルに置いた。
その間成瀬は一瞬何かを迷う様子でから数秒視線を逸らし、それから再びこっちに瞳を向ける。
「、その前にキミにひとつお願いがあるんだけど、いいかな?」
「?お願い?」
このタイミングでかい。
彼の台詞にそう思わないでもないが、もしかしたらこのタイミングを狙ってのことかもしれない。
成瀬のことだから丹羽や西園寺みたな無茶ぶりはしてこないだろう。
は小さく頷いた。
「いいよ、なんだ?」
「うん、じゃあ・・・僕にキミを抱きしめさせてくれないか?」
成瀬はの視線をしっかり捕らえたまま、突然ぐっと距離を縮めてそう言った。
そしてはたっぷりしっかり数十秒。
無言で相手の顔を凝視する。
「・・・・・・・・・、・・・・・・、は?」
呆然。
はたった今成瀬がのたまった言葉をよく理解できず、瞬間的にフリーズした。
『お願い』の内容を聞かずに頷いたもだけど、ちょっとこれは予想外どころじゃない。
なんだ、なんだ。
なんなんだ。
今コイツはなんと口にしやがりましたか。
軽くパニくるは、返事も出来ずにかたまり続ける。
結構な至近距離まで身を寄せている成瀬が、困ったような笑みを浮かべて重ねて質問してきた。
「ダメかな?」
「え?いや、ダメと言うより、え?・・・ええええ!?」
ダメとかいいとか、そういう問題なのかこれは。
何で相手に成瀬がこんなことを言い出したのか全く分からない。
「・・・突然こんなことを言ったら驚かせちゃうのは分かっていたんだけど、ごめん。
キミと話をする前に、確かめたいことがあったんだ」
「驚くに決まってるだろ!・・・あー、てかそれってそれで確かめられることなのか?」
と言うかを抱きしめることで確かめられることってなんなのか。
しかも成瀬の口からそんなことが飛び出すなんて、本当に何かの間違いじゃないだろうか。
寧ろそうであってくれって願いも込めて、は彼に問い返した。
だけどの予想をまたしても裏切って、成瀬はしっかり頷く。
「うん、きっと確かめられるよ」
「・・・・・」
「」
何故か妙に切実な口調で名前を呼ばれて視線を絡め取られる。
いつもの爽やかさを感じさせない、どこか色気さえ含んでいるような視線だ。
こんな目をされると益々今の『お願い』ってやつを意識せずにはいられなくなるけど、
このままごめんなさい出来る空気じゃない。
はいつもより近い距離に居る彼から瞳を逸らし、盛大に溜息をついてから、躊躇いつつも小さく頷いた。
「少しだけ、すぐ離れるってことで」
「ありがとう!!」
言うが早いか、成瀬は早速の腰に腕を回してそのまま自分の胸元に引き寄せた。
既に結構な至近距離だったから、あっと言う間には彼の腕の中に納まってしまう。
しかも同じソファに座ってたから、
成瀬に引き寄せられたことでの体を彼に押し付ける形で傾いてしまっていて、
思った以上に密着してしまっていた。
も成瀬もまだ制服姿のままだったけど、それでもこれだけ体を寄せ合ってしまうと、
布越しでも成瀬の胸や腕の筋肉の硬さが十分伝わってくる。
途端、の心臓は物凄い速さで鼓動を刻み始めた。
今まで軽いスキンシップは何度もあったけど、こんなに密着するなんてなかったことだ。
ただし、啓太に振られた成瀬をカラオケBOXで慰めたあの日を除いては―――
と言っても、あれはからだったし、
それを引き寄せた成瀬も軽い接触程度でこんなにがっつり触れ合ったりしてなかった。
「な、成瀬、もういいだろ、放せよ」
成瀬からのこの謎の抱擁に十数秒程度で根を上げたは、動揺を必死で押し隠しつつ、
彼の体から身を離そうと軽くもがく。
けれど、予想以上に成瀬の両腕はがっちりの上半身を絡め取っていて、殆どその効果はなかった。
体格差や性別だけじゃなく、体ごと成瀬に傾いてる体勢のには勝ち目なんぞない。
「ええ!?まだ早いよ」
「少しだけって約束だ」
「でも確かめられなかったら意味がないだろう?」
「いや、そもそもこれで何を確かめたいんだよ、あんたは」
「それは―――」
言いかけた成瀬が、そこで何故か言葉を切る。
見上げたすぐ先にある成瀬の瞳が、一瞬戸惑うように揺れた。
「・・・」
「ん?」
「キミには、今の僕はどう見えてる?」
「え?」
「・・・、まだ・・・上手く笑うことを演じてる、頼りない男に見えているのかな?」
「成瀬・・・」
至近距離からを見つめる彼の瞳には、つい数秒前までの戸惑いは消えていた。
そこで、は思い出す。
それこそ、ついさっき考えてた、カラオケBOXで成瀬を慰めてたあの時のことだ。
あの時。
成瀬は啓太の前で自分が上手く笑えてるかとに聞いてきた。
そしては思った通り素直に答えた。
―――成瀬が上手く今まで通りの態度で居るから、その分見えないとこで痛い思いしてるんだろうなってさ。
でも今は、今の成瀬は違う。
きっと啓太への想いはまだ完全には吹っ切れてなくて、色々思うところもあるんだろう。
だけど少なくとも、今の彼は、啓太や丹羽の前でも、自然に上手く笑うことを演じてるようには見えない。
彼ら三人の泥沼三角関係だのなんだのと好き勝手囁かれていた噂さえ、今はもう消え失せてしまった。
それは多分、周りの目から見ても成瀬とあの二人の関係が良好だと分かる位になってるからだ。
それが無理をして頑張ってる『つくりもの』じゃないことは、ある程度彼らと親しい人間なら分かる。
「今の成瀬は、頼りない男なんかじゃない、全然違うよ。寧ろ男前だな」
振られた直後だって本当は男前だった。
啓太を思いやって、必死で自分の気持ちを抑え込んで、啓太や丹羽の前ではいつも通りを貫き通そうとしたんだから。
「!本当かい!?!」
「どわっ!?」
「キミにそんな風に言って貰えるなんて、僕は嬉しいよ!」
言った成瀬は満面の笑みを浮かべたと同時に、を更に強く抱きしめた。
それこそ少し苦しいくらいの力の込め方だ。
今日の成瀬はやっぱりおかしい。
過度のスキンシップは勿論、の言葉にここまで過剰反応を示すなんて、今までなかったことだ。
「な、成瀬!?落ち着け!てか頼むからもう放れようか!」
「!キミに話をして良かった」
「そりゃどうも・・・、じゃなくて!聞けよ、オレの話も!」
成瀬の腕の中でまるで小さな子供みたいにジタバタ暴れるを、彼は全く気にした様子もなく、
の体をしっかりと自分の胸に押し付けたままだ。
なんなんだ、この状況は本当に。
と言うか、コイツはに対してこんなに強引な男だっただろうか。
何度も言ってるけど、今日の成瀬はやっぱりおかしい、絶対おかしい、確実におかしい。
「もうひとつだけキミに聞きたいことがあるんだ」
「・・・何?」
一通り暴れまわった結果、これ以上は無駄だと悟ったは取り合えずぐったりとして返事をする。
その間も清々しさの中に少しだけ甘さの混ざった男物の香水の匂いが仄かにの鼻腔をくすぐり、
成瀬と密着した部分からじんわりと混ざり合っている体温が妙に気恥ずかしかった。
「キミは僕に言ってくれただろう?もしも次に僕が恋をすることがあったら、
その時は僕を全力で応援してくれるってさ。・・・あの言葉は、今でも変わらない?」
今回もまた、成瀬からの問いは予想外のものだった。
はほんの数秒考えた後、彼に分かるように大きく頷いた。
「うん、変わらないよ」
「・・・・・・・・、そっか」
何故だろうか。
気のせいかもしれない。
からは成瀬の表情は見えない体勢で抱きしめられていたから本当のところは分からないけど、
この時、彼の短い返事は何だか酷く落ち込んでいたように聞こえた。
ほんのついさっきまで、満面の笑みを浮かべてた同じ人間とは思えないくらいに。
それからこの後すぐに彼はから体を離し、口を開いた。
「ありがとう、。やっぱりキミに話をして良かった」
「あ・・・、う、うん」
本当は、からももっと色々と山ほど言いたいことはあった。
今日の成瀬の態度がおかしかったことも含めて、結局彼が確かめたかったのは何だったのかとか、
それに関係してを抱きしめた理由とか、色々。
だけどは最終的にその内のどれも口に出来なかった。
の視線の先で笑った成瀬の表情が、どことなく、あの失恋直後のあの笑顔にそっくりだったから―――
(END)