数センチメートルのすれ違い

生理が近いせいか朝から体調が微妙だった。
大事を取って休むってことも考えたけど、そうすると授業の遅れを取り戻すのに苦労しそうだし、
この後生理期間に入ってもしももっと体調が悪くなった時に休み辛くなる。
と言うことで、今回は普通に授業を受けることにした。
そしてその日の3限目。
が受けるはずだった授業が、実はの勘違いでその日は受けられないことが分かった。
つまり、3限目はまるっと時間が空いてしまった訳だ。
体調不良もまだ続いていたので、取り敢えずはこの時間は保健室で休ませて貰うことにした。



「え?ああ、成瀬か」


そして保健室へ向かうその途中。
廊下の向かい側から小走りで駆け寄ってきたのは偶然通りかかったらしい成瀬だった。
は視線を上げずに歩いてたから、声を掛けられるまで気付かなかった。


「珍しいね、君一人かい?」
「うん、二人ともオレとは別の授業で教室移動だからさ」


本当は和希も啓太もを心配してついて来ようかって言ってくれたんだけど、
そこまでしてもらうほどの体調じゃなかったので遠慮した。


「じゃあ、も教室を移動してるところか」
「ううん、オレは次の授業穴が開いたから、保健室でちょっと休ませて貰おうと思って」
「保健室?もしかしてどこか痛いのかい?それとも怪我したとか?」
「いや、痛みがあるとか怪我してるとかじゃない。ただ朝からちょっと体調微妙でさ、
3限はどうせ授業ないし、ベッド借りようかなと」


ホント、大した事ないんだけどな。
成瀬が思った以上にを気遣う様子を見せたので、は慌てて更にそう付け足した。
軽い口調で言ったつもりだったので、もっとさらっと聞き流すかと思ってた。
保険医の松岡先生は生徒からの信頼も厚くて、ちょっとしたお悩み相談なんかも受けてる人。
色々な意味で寛大なので、生徒によっては寝不足だからちょっと寝かせて貰うなんて奴まで居るくらいだ。
もそのノリで終わるかと思ってた。


「そっか、良かったら僕も一緒に保健室まで付いて行っていいかな?」
「え!?いや、今も言ったけど、本当に大した事ないし!逆に申し訳ないから」
「ダメかな?実は最近松岡先生にはうちの部員がお世話になったばかりなんだ、
だからそのお礼も改めて言いたいし」
「え?・・・まぁ、そういうことなら」


これ以上成瀬の申し出を拒むのも悪いし、彼には彼で松岡先生に会いに行く理由があるようだ。
は結局成瀬の言葉に頷いた。


「じゃあ行こうか」
「うん」



□■□



君、すまないんだが、実は僕はこれから少し用事があってね。
と言っても、30分程度で終わるからすぐに戻ってくるつもりではあるんだが、
その間君を一人にしてしまうんだ」


保健室。
と成瀬が室内に入った直後、松岡先生は書類片手にパソコンに向かっている所だった。
彼はいつも通りの穏やかな笑顔で達を迎えてくれた後、
の側に居た成瀬とテニス部員の話を手短に終え、
申し訳なさそうにそう言った。
多分、先生も相手が正真正銘普通の『野郎(♂)』だったらこんなことは口にしてないだろう。
だけど松岡先生はが本当は女だってことを知ってる。
だから、そのが保健室で無防備に一人で寝ることになるのを心配してくれてるんじゃないだろうか。
以前に彼から言われたことがある。


―――「君、この保健室に居るときは、
和希君や伊藤君達の前で居る時と同じように寛いでくれていいんだよ。
だけどね、気を付けて欲しいこともある。君は本当は女の子だ。
もしも万が一、保健室で一人になることがあったら、その時はきちんと気を付けて欲しいんだ。
周りに誰も居ないからと無防備になり過ぎては危険だからね。女の子の力では対処出来ない事も起こり得る」


保健室は多分、周りには理事長であることを隠してる和希にとっても、素の自分で居られる数少ない場所だろう。
そして、それはにとっても同じ。
だけどそれはあくまで保健医である松岡先生が居るからだ。
ここが保健室だってことで安心しすぎて、
一人きりの時に余り無用心な真似はしないようにと先生は注意してくれたんだと思う。
だから今も、一人保健室に残ったがベッドで寝てしまうってのはどうかと心配してるんじゃないだろうか。


「松岡先生、先生が戻ってくる間、僕がここに残りますよ」
「え?成瀬?」


が松岡先生に返事をするより前に、成瀬がそう口を開いた。
思わぬ提案には驚いて彼に視線を移す。


「成瀬君が?だけど君には授業があるんじゃないのかい?」
「・・・いえ、次の時間は丁度空いています」


嘘だ。
さっき廊下で顔を合わせた時も、それにここに来る直前にも、成瀬はそんなこと一言も言ってなかった。
きっとの為に彼は松岡先生に嘘を吐いたんだ。
気持ちはスゴク嬉しいけど、のせいで彼に授業をサボらせる訳には行かない。


「じゃあ、頼んでもいいかな?」
「あっ、ちょ、待って、なる―――」


事情を知らない松岡先生は成瀬の申し出を受け入れようとしていた。
は慌てて二人の会話に割って入ろうとする。


「はい、任せて下さい。もそれでいいね?」
「え?いやいやいや、でも・・・」
「ああ、すまない、二人とも、僕はそろそろ行かないと。じゃあ、すぐに戻るからね」
「あっ!」


ちらりと腕時計を確認した松岡先生はそう言い残して、少し急いだ様子で保健室を出て行ってしまった。
この状況で彼を引き止めるなんてことは出来ない。


「成瀬」
「何だい?おっと、それよりも君は早くベッドに行った方がいいんじゃないかな。
寝る時間が減っちゃうだろ?」
「そりゃどうも、じゃなくてえ!」
「ん?」
「オレのことは気にしなくていいからさ、あんたは授業に出ろよ。
本当は次の授業、普通にあるんだろ」


一人きりになった後は松岡先生が来るのを待って、それから眠るつもりで居た。
先生は30分位で戻れると言ってたし、それから休むにしても1時間弱は寝られる。
待ってる間に特にすることもなくて暇だけど、そんなのは適当にやってればどうにかなることだ。


「いいよ、僕はここに残る」
「って、成瀬?」
「松岡先生には一度嘘を吐いちゃったからな、続けて二回も嘘はつけないよ」
「・・・でもそれはオレの為だろ?先生にはちゃんとオレから話すし」
「いいんだよ、ほら、それよりは早くベッドに入って」


言って、成瀬はをベッドのあるカーテンの奥へと軽く押し出す。
行動は一見強引なのに、手つきが優しいなんて変な感じだ。
仕方なくはベッドの端に腰掛ける。
そしてそのまますぐ傍に立っている成瀬を見上げた。
彼はそのの顔でがまだ彼を授業に向かわせることを諦めてないことに気付いたらしい。
困ったように笑う。


「分かったよ、君が寝たらすぐに授業に戻るって」
「・・・遅れて入れて貰える?」
「うん、入れて貰えるよ」
「オレの付き添いだったって普通に言ってくれよな」


先生によってはどんな事情があろうと遅刻厳禁の授業もあるが、
体調不良(この際大した事ないって部分はなしで)の友人の付き添いなら許して貰える確率も上がるだろう。
成瀬は小さく笑って頷いた。


「ああ、分かった、そうするよ。だから君はもう横になって」
「・・・OK・・・、オレが寝たら成瀬は授業に戻るんだな?」


は確認の意味を込めてもう一度そう繰り返す。
彼は再び首を縦に振る。


「モチロン」


言葉と同時に気障ったらしくウィンクまでしてくれた。
その表情に思わずは苦笑する。


「・・・じゃあ、ごめん、寝る」


と言っても、本当はこのまま普通にベッドで寝てしまうってのはやっぱり無防備すぎる。
今は成瀬が居てくれるけど、彼はが寝たのを確認したら授業に向かうのだ。
つまり結局は保健室には一人になってしまう。
と言うことで、ここで本気ですやすや寝てる訳にはいかない。
だけどが休まない限り成瀬は教室に戻らないと決めてるようだし、
ここは狸寝入りするしかなさそうだ。
だからって突然寝息たて始めるのもわざとらしいし、5分位してから寝たフリに入ろう。
そう、あくまでもフリであって本気で寝たりしない。
フリだ、フリ。
リアルに、自然に、狸寝入りするのだ。
その、つもりだった。
―――んだけど。




「っ!?」


バチリ。
ガバッ。


は瞼を開けたのと同時にベッドから飛び起きた。
寝てた。
普通に寝てた。
とても大変非常に気持ちよく寝てしまった。
反射的に成瀬が立ってた場所に真っ先に視線が向いたけど、彼の姿はない。
そこだけは安心した。
それからすぐはベッドのある一角を仕切ってるカーテンに手を伸ばし、それを勢い良く開ける。


「ああ、目が覚めたかい、君」
「・・・松岡先生・・・」


定位置に座って仕事をしてたらしい彼が顔を上げてに笑顔を向けた。
彼が戻ってきてるって事は、少なくともあれから30分以上は経ってるってことだ。
つまり、はそんなことにも気付かず完全に眠りこけてた訳だ。
狸寝入りとは一体何だったのか。


「す、すみません・・・
「ん?どうしたんだい?急に」
「あの、だって、保健室に一人だったのに普通に寝てしまってましたから。
幾らなんでも無用心だったかと」


以前松岡先生にも言われていたことだ。
保健室で一人になってしまった場合は、幾らここが寛ぎやすい所でも気をつけろと。
実際寝たフリ直前までその言葉が頭にあったってのに、何であんなにスヤスヤ寝てしまったのか。


「・・・え?ああ、そうだね」
「?」


気のせいだろうか。
何となく、今、松岡先生の返事が微妙にぎこちなかったような。


君」
「はい」
「成瀬君は君の本当の性別のことを知っているのかい?」
「ええっ!?いえ、話してませんけど・・・、も、もしかしてバレてる感じでしたか!?」


この話題の流れだともしかしたらが気付かない内に成瀬がの性別に気付いてたとか、
そういうことだろうか。
万が一そうだったとしたらどう考えても自業自得だ。


「はは・・・、すまないね、そういう意味で訊ねたんじゃないんだ。
彼の場合、君の性別に気付いているように見えたと言うよりは・・・」
「?言うよりは?」


先を促す形では松岡先生の最後の言葉を繰り返した。
そこで先生は少し考えるような表情で眼鏡の奥の優しい瞳をじっとこっちに向ける。
それから不意に苦笑した。


「いや、気にしないでくれ。僕の勘違いだと思うよ」


松岡先生がそういうなら仕方ない。
本当はかなり気になってしまってるけど、相手が和希や啓太の時と違ってさすがに突っ込んでしまえない。
は軽く頷いた。
それから時計に視線を移す。
後10分程で3限目が終わりそうだ。
ってことはやっぱりは結構な時間眠ってたってことだろう。


そろそろ戻ります、ベッド貸して頂いてありがとうございました」
「もう気分はいいのかい?」
「はい、元々そんなに悪かった訳じゃないですし・・・、って、すみません」
「謝ることはないよ。何かあったらまたおいで。勿論、なくてもね」
「あ、はい!いつもありがとうございます」


は松岡先生に頭を下げて、保健室を後にした。
その直後。


「・・・どうやら、和希君の言う『嫌な予感』は当たってしまったのかな」


先生が苦笑交じりに呟いた一言の意味を、は知る由もなかった。



□■□



放課後。
は成瀬に3限のお礼を言いに2年の教室に向かった。
成瀬はテニス部だけど、この時間ならまだ部室に行く前に間に合うだろう。
そう思って成瀬のクラスを覗いてみたんだけど、予想に反して既にその姿はない。
その代わり成瀬と仲のいいクラスメイトで、テニス部員でもある男子生徒の一人がに気付いて近付いてきてくれた。
はテニスの練習や試合を何度も見に行ってるし、
休日に部員の何人かと街に遊びに行ったこともある。
特に成瀬が啓太に失恋してからはそういう交流が増えてたこともあって、
は何人かのテニス部員と結構気軽い関係を築いていた。
彼もその中の一人だ。


「よ!、成瀬探してるのか?」
「うん、まだ教室にいるかと思ってたんだけど」
「ははは!あいつな、レポート提出締め切り今日までの授業サボってさ、センセから呼び出し食らってんの」


そう言って笑いながら答えてくれた彼の返事に、は思わずぎくりとする。
は殆ど反射的に彼に質問していた。


「な、なぁ、それって・・・、もしかして3限のことか?」
「ああ、そうそう、3限3限。何の用があったかは知らねーけど、あいつにしちゃ珍しいぜ。
しかもあの小言の多いジイ様の授業だったからな、あれは多分部活始まるギリまで説教だろ」
「・・・そう、だったのか・・・」
「っと、悪い、、俺、部活前に用事があるんだ、そろそろ行かねーと」
「あ、ああ、うん、サンキュ、またな」


慌てた様子での前から離れていく成瀬のクラスメイトの背中を見送りながら、
はたった今聞いたばかりの話で頭を一杯にしていた。
3限の授業を成瀬がサボった理由なんかひとつしかない。
彼はきっとがうっかり本気で寝入ってしまった後も側にいてくれたんだ。


「あ・・・」


そうだ。
どうして気付かなかったんだろう。
が保健室のベッドから飛び起きた直後。


―――「あの、だって、保健室に一人だったのに普通に寝てしまってましたから。
幾らなんでも無用心だったかと」


松岡先生はが彼にそう謝ったことに対してなんだか少しぎこちない様子で返事をしてた。
それにその後の彼からの成瀬はの性別を知ってるのかって質問だけど、
松岡先生がそんな風に聞いてきたのは、
もしかしたらが寝てる間に成瀬と会話したからじゃないだろうか。
つまり、成瀬は松岡先生が戻ってくるまで保健室に居て、
その時の話の内容から何かを察した松岡先生はあんな質問をしたって訳で。
この場合、とりあえずの性別どーのこーのの話は置いておく。
勿論これはこれでにとって重大なことだけど、松岡先生の返事だと(かなり曖昧だったけど)
の性別に気付いてるってのとは違う感じだったらしいし。
今、重要なのは、成瀬がが眠ってる間もずっと側に居てくれて、
最終的に授業をサボることになってしまい、小言ジイ様先生の説教部屋行きになってしまった事実だ。
本当なら今すぐにでも成瀬にお詫びとお礼を言いたかったけど、
成瀬の友達の話じゃ部活ギリギリまではジイ様から放して貰えないようだ。
仕方がないのでは寮に戻って成瀬が帰ってくるのを待つことにした。
少なくともこの時点では、この件が当日中に片が付かないまま、
このままずるずるとの頭を悩ませ続けるきっかけになるなんて思っても居なかったのだった。


続く