―――――ねね
ねねと言えば、豊臣秀吉の正室の名前。
でもそんなことはどうだっていい、今は問題じゃない。
それよりも私がムカついたのは、ねねの名前を呼んだ慶次の声が、
嫌になるくらい優しくて、そして愛しさを含んでいたこと。
それが何故か私を無性に不愉快にさせていた。
結局…慶次も同じだ…他に好きな人が居たんじゃない…。
あの笑顔。
あの、胸を締め付けるような笑顔も、私じゃなく、
「ねね」に向けられたものだったんだと思うと、更に複雑な気分が押し寄せてくる。
…別に最初から慶次が私に言ってたことを鵜呑みにしてた訳じゃないし…。
さっきの……キスだって……………。
「ちゃん!」
「っ!?」
いつの間にか後ろから私を追いかけて来ていた慶次に、唐突に腕を掴まれた。
私が腕を振り解こうとすると、その腕もまた空いている片手で掴まれる。
「離してっ…!」
「ちゃん、俺何か怒らせるようなことしちまったのかい?
頼むから、理由くらい教えてくれよ。」
「………それは……っ……。」
慶次に言われ、私は言葉に詰まった。
何と答えればいいんだろう。
私以外に好きな人が居たから…?
……でもそれじゃあ…私が慶次を好きみたいじゃない…。
慶次だって別に……。
「……ちゃん…?」
両腕を掴まれたままの状態で、私は俯いて口をつぐんだ。
慶次が心配そうに私を覗き込む。
今のやりとりで酔いが醒めたのか、彼の顔はもう赤みを帯びていなかった。
「…………ねね……って……言ってた、慶次……。」
「……!?」
ビクリ。
『ねね』の名前を耳にした瞬間、慶次の腕が震えるように反応した。
私はそこで顔を上げて、彼を見つめる。
慶次は複雑な表情のまま、暫く何も答えなかった。
それから彼は、苦笑に近いぎこちない笑顔を浮かべて口を開いた。
「……参ったね…、俺…寝言いっちまってたのか…。」
「……そう、やっぱり好きな人の夢見てたの。」
「…否定はしねぇ…けど……。」
「やっぱりそうなんだ?…そう、だったらもう一眠りして続きを見ればいいわ。」
自分の声が嫌になるほど棘を含んでいることに私自身気づいていた。
それでも、それを止めることも私には出来なかった。
「ちゃん、違うんだって。」
「…いい、別に…私には「ねねはもう居ねぇんだ…。この世界の何処にも。」
「―――――え?」
私の言葉を遮るように言った慶次。
一瞬、聞き違いかと思った。
だけど、彼の顔は真剣で、とても真剣で、
どう見ても冗談を言っているようには見えなくて。
この世のどこにも…?それって……もしかして…。
「…ねねは俺の初恋の女だ…。だから勿論忘れちゃいねぇ。
けど、俺が今、心底惚れてる女はちゃんだけだぜ。」
「慶次……。」
「信じてくれるかい?俺の言ってること。」
両腕を掴んでいる慶次の手に、少しだけ力が入った。
私はゆっくりと視線を慶次と合わせて、彼の瞳を見つめる。
その瞬間、不意に、今までになく、自分の心が素直になっていくのが分かった。
何かが、解けていくのが、分かった。
―――――私結局、慶次のことが好きなんだ。
ついさっきまで意地になって否定していたことなのに。
どうしてだろう、彼のこの瞳を見ていたら、
認めずには居られなくなってしまった。
私は自分はもっと複雑な人間だと思っていたのに。
何て単純なんだろう。
そして、私は彼に向かって無意識に小さく頷いていた。
「ちゃん…。」
グイッ
「あっ…!」
突然、慶次が私の両腕を自分の方へと引き寄せる。
咄嗟に対処出来なかった私はそのままバランスを崩して慶次の胸によろめいた。
「ちゃん…俺…、今はあんたの返事を無理に聞こうとは思わねぇよ。
けど、悪ぃ…どうしても我慢出来ねぇ…。少しだけ、こうさせてくれ。」
「・・・・・・・・・慶次・・・・・・・・・。」
慶次は私を抱きしめる腕に力を込めて、囁く様に言った。
押し付けられた彼の胸から、温かさが伝わってくる。
私はゆっくりと慶次の背中に腕を回した。
ふ、と、目を上げてみると、慶次の肩越しに月が見える。
彼の匂いに包まれながら、私はただじっと月を眺めた。
―――――ねね
今はもうこの世界のどこにも彼女は居ないと慶次は言った。
だけど、慶次、貴方はまだ、きっと彼女の事を好きなんだと思う。
そして私も、今はまだ気づいたばかりのこの気持ちを、素直に口にすることが出来ない。
恋にしっかりと目を向けるには、まだまだ私は臆病で、
愛を語るには、傷が塞がりきってはいなくて。
せめてもう少し、後もう少しだけ、この優しい時間の中、過ごして行きたい。
(終わり)
後書き
何かヒロインの心境が急展開過ぎなくもないですが、どうにか進んだ?かな。
元親連載に比べたらお触り指数が低いですね。
ではでは、ここまでのお付き合い誠に有難うございました、失礼致します。
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