の部屋に到着すると、甘寧は灯りも点けずに彼女を寝台へ運んだ。
いつの間にかはここに着くまでの間に彼の腕の中で寝息をたてて眠っていた。
寝台へ寝かされた彼女の頬には、未だに乾ききっていない涙の跡が幾筋か残っている。
甘寧はそんな彼女の顔をじっと見つめながら、遠い昔の出来事を思い出していた。



あれは甘寧がまだ錦帆賊の頭を務めていた頃の事だ。
今日と同じように、珍しくは1人で酒を浴びるように飲んでいた。
誰かに絡んでいる訳でも暴れている訳でもなかったが、
見過ごすには余りに大量の酒を飲みすぎていた為、
甘寧はやはり今日と同じく彼女に声をかけた。
だが、返って来た彼女の言葉はそれとは全く関係の無い問いだった。

『ねぇ甘寧、私の手、どう見える?』

彼は最初、彼女が何故突然そんな事を言い出したのか全く分からなかった。

『んだぁ?やっぱオメェ酔ってやがんのかよ?ったく、んな無理な飲み方・・・。』

先を続けようとした彼だったが、から向けられた視線に思わず口を閉じた。
彼女は真っ直ぐと彼を見つめていた。
しかし今まで見たこともない程暗い表情をしていたのだった。
は手元のまだ酒で満たされている杯をグイッと飲み干し、
そしてその沈んだ瞳で彼を見つめたまま言った。

『私には・・・この掌が血に染まって見えるの・・・。』
『・・・・・・オメェ、何かあったのか?』
『いいえ・・・何も・・・。ただ、時々夜中に目が覚めて・・・自分の掌を見つめていたら血で穢れて見えるの・・・。
私はそれが怖くて・・・怖くて・・・手を洗うのに、全然綺麗にならないの・・・。』
『・・・・・・・・・・・・・・・・・。』

はそこで口元をほんの少し歪めて続ける。

『判らない・・・甘寧・・・。あんたと一緒に戦うことに、これっぽっちも抵抗はないのに・・・、
いいえ・・・それどころかそれが私の喜びでもあるのに・・・。』

は杯から手を放し、震える両手を目の高さまで上げた。

『なのに・・・穢れて見えるの・・・。甘寧・・・あんたには・・・どう見える?』
『・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・。』

甘寧はそれ以上何も口にすることが出来なかった。
彼にとっての戦いは、常に存分に暴れることの出来る喧嘩であり、
そしてある意味でそれが生きがいでもあった。
そしてその彼の隣に彼女はいつも当然のように存在し、共に戦って居たのだ。
にも関わらず、彼は今まで彼女の苦しみに全く気付いていなかった。
『鈴の甘寧の傍には常に幻惑の蝶が舞っている』とまで言われるほど、
彼らは長く戦いを共にしていたはずなのに。


だがその翌日、彼女は全くその事を覚えていなかった。

『私・・・昨日何かしたりした?』

彼女は眉間にしわを寄せ、必死に昨夜の出来事を思い出そうとしている様子だったが、
結局思い出せず甘寧にそう訊ねた。
甘寧がそれを否定したのは言うまでもない。


この出来事があった数週間後、彼は賊から足を洗うことを決意した。
そして彼がその後呉軍に現れた彼女が戦に出ることを渋った原因も、
この事に深く関係していた。


「ん・・・・・・・・・・。」


不意にベッドで眠っているが小さく声を出し、僅かに身体の位置を移動させた。
甘寧はそこで思い出から現実へと引き戻される。
そしてすぐ傍のベッドで眠っている彼女へ視線を移した。

「玲禅・・・ごめん・・・なさい・・・。」

彼女はその整った眉を苦しげに歪めてそう口にした。
どうやら今日の戦の夢を見ているらしい。
甘寧は彼女の頬に片手で軽く触れた。
彼女の閉じられた瞳から、幾筋もの涙が流れ出た。


玲禅・・・オメェなら・・・判ってやってるはずだぜ・・・。
がどんだけ辛かったか・・・よ・・・。


甘寧のに触れている右手が彼女の涙の雫で濡らされていく。
彼はゆっくり彼女の頬を撫でるようにその手を彼女の唇に移動させた。
そして親指の腹で彼女の唇をなぞる。
彼には紅い唇が濡れた花びらのように見えた。
暫くの間彼女の唇を見つめていた甘寧は、
やがて身を屈め自分の唇を彼女のその美しい唇に重ねた。
の柔らかく温かい濡れた唇が彼を甘く酔わせる。
彼女の頭のすぐ横で身体を支えている甘寧の手が、の長い髪の波に絡め取られていた。
甘寧は自制を失いそうになる自分自身を抑え、彼女から身を離す。

「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・。」

を愛しいと想う気持ち、それ故彼は彼女の気持ちを知っていながらその想いに応える事が出来なかった。
喧嘩にたぎる血に身を任せている自分と、
この戦乱の世を渡るには純粋すぎる彼女では余りに釣り合いが取れないと甘寧は思った。
彼女の身を守りきる自信がない訳ではない、
だが彼女のその繊細な精神を支えてやれる自信はなかった。
否、寧ろその彼女を深く傷付けてしまうかもしれない事を恐れていたのだ。


「おいクソ親父・・・オメェもちっと長生き出来なかったのかよ?ああ?」


甘寧はそう呟きながら、腰の鈴、の父親の遺した鈴に軽く手を触れた。


コロロ・・・ン・・・


鈴がそれに応える様に小さく哀しげに鳴る。
せめて自分の中からへの想いの欠片が全て消えて無くなってしまっていれば、
彼女と再会を果たした後も兄として接することが出来たはずだと甘寧は思った。
甘寧は腰の鈴から再びへと視線を移した。
規則正しい寝息をたてて眠っている彼女の寝顔。
遠い昔、それと同じ寝顔を彼はたった1度だけ自分の腕の中で眺めた事がある。


・・・いや、・・・あの頃よりもっと綺麗になっちっまったな、おめぇはよ・・・・・・。


まだ少女に近い幼さを残していたあの頃と違い、今の彼女は大人の女の魅力を充分に宿している。
だが、その心は昔と何ら変わっていない、純粋な少女のままだ。


、オメェの手は穢れてなんかいねぇよ、俺が保障してやるんだ、安心しろ。」


眠っている彼女にその言葉が聞こえるはずも無いことは分かっていたが、
彼は彼女に向かって言った。
初めてあの問いを投げかけられたあの時、彼女に言ってやれなかった言葉だ。
甘寧は彼女の美しい黒髪に軽く口付けると、そのまま部屋を後にした。

明日になれば彼女はまた甘寧にあの時と同じく訊ねるだろう、
自分が記憶の無い間に何かあったかを。
そしてそれに答える甘寧の返事もまた、あの時と同じくそれを否定するものに違いなかった。


の甘寧への想い、そして甘寧のへの想い。



皮肉ではあるが、酔っているが記憶を無くしているからこそ、



明らかになったものだと言えるのかもしれない。



(甘寧編 慟哭2-終-)


後書き
短いですね・・・。まさか後編こんなに短くなるなんて!
因みに今4時です!無駄にハイテンションになりますね、この時間。
それはさて置き、この甘寧編で初めてハッキリ甘寧の気持ちを書いた(つもり)
んですが、いかがでしたでしょうか?
ま、ある意味相思相愛・・・?なんですかね・・・。
しかししつこいようですが未だに、
どうだ?これは甘寧か?そうなのか?と自問してます(凌統も同じです。)
でわでわ、ここまでのお付き合い誠に有り難うございます!
今回はここで失礼させて頂きます。



ブラウザバック推奨