が呉を発つその日の明け方、は出発時刻よりも随分早くに目を覚ましていた。
朝靄のかかる城の中庭を1人で歩いて周りながら、ここに来てからの生活に思いを馳せる。
僅か2ヶ月余りの生活ではあったが、この孫呉は彼女にとって昔の賊軍時代を思わせるほど居心地が良かった。
頼もしい君主に仲間たち、そして可愛くも有り、優しい二喬や尚香。
充実過ぎる位充実した毎日。
その恵まれた環境を捨てねばならぬほどに、の甘寧への想いは深く、一途だった。
澄んだ空気をゆっくりと吸い込んで肺に送り込み、
彼女は城に向かって寂しそうに微笑んで呟いた。
「さようなら・・・・・・。大好きだったわ・・・ここの皆が・・・・・。」
やがて彼女が発つ時刻近くになると、迎えに来たのは二喬だった。
宴の席でが此処を離れると聞かされたとき、二人の驚きようは並みではなく、
小喬などは泣き出してしまった程だ。
大喬はと言えば涙こそ見せはしなかったが、
その後宴の席では勿論、今日まで暗い表情を隠せないで居た。
「やだやだやだ!!!ねぇ、!行かないで?ね?ずっとここに居ようよぉ!」
「小喬・・・・・・、駄目よ、さんを困らせては・・・。」
の為に孫堅が用意したその船に乗る時刻が近付く中、
未だに小喬はの腕を掴んで小さな子供のように駄々をこねる。
大喬は姉らしくそれを諭しはしたが、気持ちは彼女と同様だった。
大喬の隣の尚香も、いつもの快活な笑顔を見せる事はなく、口数は少ない。
「ごめんね、。ワタシたちだけしか見送りに来られなくて。
父様や兄様や皆も本当はスゴク見送りしたかったみたいだけど・・・。」
「うん、・・・周瑜様も言ってたよ・・・ざ・・・残念だって・・・。」
「孫策様も仰ってました・・・、ほら、小喬、泣いては駄目よ・・・。」
「尚香様、大喬様、小喬様・・・・。」
は彼女達3人それぞれに視線を向けながら、改めてこの呉に共にあれた幸せを実感する。
いち武将であるはずの自分が此処を離れると言うだけで、こんなにまで惜しみ、そして悲しんでくれる。
実際、彼女らの言うとおり、今日のこの日が来る前日までに様々な人物がに声をかけて来た。
その中には思い留まるよう説得しようとした者も少なくはない。
「・・・・・・・・・・・・甘寧・・・・・・・来ないね・・・・・・・。」
不意に、尚香が2人には聞こえない程度の声でそうに言った。
は海に目を向け、そして空を仰いだ。
「・・・尚香様・・・いいんです。これで・・・・・。」
今この場に彼が居ないことが逆に有り難いとは心から思っていた。
甘寧を目にすれば、それだけで心乱れる事は必至だ。
最後の最後まで、そんなみっともない真似は出来ない、とは思った。
「様ぁ!!そろそろ出航します!!乗船して下さい!!」
船員のその言葉に、3人がビクリと肩を震わせる。
は頷いて片手を挙げ、それに応えた。
「ええ、有り難う!すぐ行くわ!!」
「〜っ!」
「・・・さん・・・わたし・・・っ・・・」
小喬が再び涙を流し始め、大喬も堪えきれなくなった様にその愛らしい瞳を潤ませた。
は右手で小喬の、そして左手で大喬の頭を優しく撫でる。
「本当に有り難うございました。
お2人とも、周瑜様、孫策様と共にこれからも仲睦まじくありますように・・・。
きっとまた、いつか会えますよ・・・。」
「うんっ!!絶対また会おうね!?絶対、絶対だよ!!」
「さん・・・わたしも・・・その時を楽しみにしてます・・・。」
は二喬に向かって微笑みを浮かべ、そして今度は尚香に向き直った。
尚香がのすぐ側に来ると、彼女の胸元に額を軽くあてて言った。
「ワタシ・・・アナタには幸せになって欲しかった・・・。」
「・・・私は幸せですよ、充分過ぎるぐらい・・・。皆さんにここまで良くして頂いたんですから。」
先程二喬にしたのと同じく、の白い手が尚香の頭を撫でた。
尚香の肩が震えだし、地面にポタポタと数滴、雫が落ちる。
「有り難うございました・・・。さようなら・・・・・・・。」
ゆっくりと尚香から離れ、は船に足を踏み入れる。
そして彼女が乗船したのを確認すると、船はすぐに出港した。
は甲板に出たまま3人の姿を見つめ、息を大きく吸い込んだ。
そしてまた、いつものようのその唇から美しく透き通った歌声が発せられる。
は彼女達3人に、そして孫呉に捧げる為に歌った。
二喬と尚香らは、の乗った船が小さくなって見えなくなるその瞬間まで手を振り続けていた。
やがて陸が遠のき、は懐かしい海の香りを肌で感じながら、その海と同じ位青い空を眺めていた。
「ん?なぁ、あれ水軍の船じゃねぇか?」
「え?ああ、本当だ。何だ、何だ?凄い速さだな。」
そんな見張り台の船員達の会話を耳にし、は彼らの言う方向へ視線を移した。
確かに、まだ小さくはあるが船が一隻此方に向かって来ている。
「・・・水軍の船?・・・・・一体どうしたの?」
「ああ、様。どうやらこっちに向かってるみてぇなんでさ。」
達がそんな会話を交わす間も、船は見る間に此方へ近付いてくる。
船員の1人が、そこで声を上げた。
「お!ありゃ甘寧将軍の船の一隻だ!間違いねぇ!!」
「・・・・・・・甘寧・・・・・・・・!?」
その名にが即座に反応し、確認するように此方に向かっている船を見つめた。
もう既に船はかなり近い距離まで来ており、確認するのは容易かった。
どうして・・・・・・・・・・・・!?
の乗っている船のすぐ側まで船体が近付き、舳先には甘寧の姿が見える。
船員が大声で彼に声を掛けると、甘寧はそれに答えて叫んだ。
「おぅ!!悪ぃがちょっくらそっちに移るぜ!!船を着けさせちゃくれねぇか!?」
「はい!分かりました!!」
返事をした船員が、急いで船を止める指示を出した。
甘寧の船がゆっくりと向きを変え、此方の船と並ぶように着けられる。
やがて準備が整うと、甘寧は隣の船からひらりと彼女の乗っている船へ飛び移った。
そして、呆然としているの元へ、真っ直ぐに歩いてくる。
「甘寧・・・・あんた・・・・・・・・・・どうして・・・・!?」
は驚きを隠せぬように途切れ途切れに言った。
甘寧はそれには答えず、片手を高々と挙げ、何かを彼女に投げて寄こした。
その瞬間に、は遠い日の甘寧を思い出す。
銀色の鈴を甘寧が彼女に渡したあの日を。
「しっかり受け取りやがれ!海に落とすんじゃねぇぞ!」
「!?」
あの日と同じ台詞を口にした甘寧の掌から、
青空の中を銀色の光が弧を描く様に彼女の元へ飛んできた。
甘寧・・・・っ!?まさか・・・・・・・・
シャラン・・・ッ・・・
聴き慣れすぎたその音色、そしてこの1ヵ月余り一時も忘れた事のない響き。
それが彼女の鼓膜を芯から震わせた。
「っそんな・・・・・・・・・これは・・・・・・!?」
受け止めたその小さな鈴は、多少焼け焦げあとは有るものの、
以前と何ら変わりのない輝きを放っていた。
余りの事にの両手は小刻みに震え、言葉を詰まらせる。
「・・・・甘寧・・・・・・・っ」
「ちょいと探すのに時間食っちまったけどよ、それにしても殆ど溶けちゃいねぇんだぜ?
さすがに俺もビビっちまった。」
得意そうな表情で甘寧はそう言って笑った。
はその鈴をしっかりと両の掌に閉じ込め、強く握り締める。
「・・・甘寧・・・あんたは・・・どこまで酷い男なの・・・・?
こんな・・・こんなことされたら・・・・・・・・・・・・・・。」
私はいつまでもあんたを忘れられないじゃない・・・・・・・・。
喉まで出かかるその台詞を、彼女は必死で飲み込んだ。
甘寧がゆっくりと彼女に近付き、彼女のすぐ側まで来て口を開く。
「・・・オメェが呉を出ると分かった時、
俺は無性に腹が立って、オメェの部屋まで怒鳴り込んじまったよな・・・。
・・・・けどよ、ありゃオメェに腹立ててた訳じゃねぇんだぜ?」
「・・・・・・・え?」
「・・・つっても、ま、俺も後で気付いたんだけどな・・・。
・・・・結局俺は俺に腹立てちまってたんだ。そうなるまで、甘えてたってことによ・・・。」
甘寧はそう言って、彼女の父親の遺した鈴に視線を落とす。
そしてそのまま先を続けた。
「オメェの気持ちが俺にあって、俺の側に居るってことに甘えてたってことだ・・・。
まさか呉から出て行っちまうなんざ考えもつきゃしなかったぜ・・・。」
「・・・・甘寧・・・・・・・・・・。」
「オメェの幸せってヤツの為にゃ俺なんかがこんな事言えた義理じゃねぇとずっと思ってたが・・・。」
そこで甘寧は視線を上げ、の顔を正面から真っ直ぐと見つめた。
彼女は彼の視線をしっかりと受け止めながら静かに口を開く。
「甘寧・・・・あんたの思う私の幸せって何?不幸って何?」
「・・・あ?・・・・そりゃ・・・・・・・俺の行く先にあんのはデカイ喧嘩の道だ。
俺は望んでそこに身を置いてるし、それが気に入ってもいる。
けどオメェは・・・・・・・・・・・・・。」
『ねぇ甘寧、私の手、どう見える?』
今でも彼の耳にこびりついて離れないの疑問。
純粋すぎるが故に戦で汚れていく自分の手に心を痛め、啼いていた彼女。
「甘寧、私の幸せはね・・・・・・・私にしか決められないのよ。」
はそう言って、片手で甘寧の頬に触れた。
「どんなに小さくても、どんなに大きくても、人それぞれの幸せの形は本人にしか分からない。
甘寧・・・私にとっての幸せは、あんたをこうして感じられる場所に居る事、声を聞いて、姿を目にして、
いつでも笑い合える距離にあんたが居る事・・・。」
「・・・・・・・・・。」
「私の幸せなんて、お手軽なもんでしょう?だけど私は・・・・それを守るのに必死だった・・・。」
そこでは微笑んで、甘寧の頬を撫でる様にして手を下ろした。
甘寧がその手を取り、そして再び彼女を正面から見据えて言う。
「、俺は心底オメェに惚れてるぜ!!」
「甘寧っ・・・!」
は半ば潤んだ瞳を彼に向け、そしてその身体に腕を絡ませた。
甘寧が彼女の腰を引き寄せ、そのままひょいと抱き上げる。
「おぅ!!邪魔したな、悪ぃがコイツは俺たちの船で預からせてもらうぜ!!!」
「「「「「よ!!!兄貴!!!さっすが漢ッスねぇ!!」」」」
甘寧の船の船員達が声を揃えて言い、一斉に拍手をする。
は涙目になりながらも、思わず苦笑した。
余りにも昔と変わらなさ過ぎる、彼と部下達の関係。
「、俺は若殿(孫権)にちょっくら暇をもらってんだ。
このままクソ親父の岬まで一緒に行ってやらぁ。」
「・・・・・・え!?」
「ま、報告も兼ねてな。」
「甘寧・・・・・・・・・・・。」
を抱き上げたまま彼の船へと移り、甘寧は言った。
そして再び大声で船員達に怒鳴る。
「野郎共!!!全速前進!!!!!岬目指してぶっとばせ!!!」
オオオオッ!!!!!!
どこまでも澄み切った青空の中、同じく蒼い海の上を、
甘寧水軍の船はの父親の岬を目指して一路旅立った。
(甘寧編 幸福論 -終わり-)
後書き
やっぱな・・・やっぱ後1話続く・・・。
しかも何だかやっぱり微妙な長さで申し訳ありません。
文章にまとまりと繊細さが欲しい今日この頃です。
それはさて置き、やっとここまできました・・・。
長かったような短かったような・・・。
この私が連載を書けたのも一重に皆様の励ましのお陰です!!!
後1話、頑張ります!!!では、ここまでのお付き合い、有り難うございました。
失礼致します。
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