「長政様・・・、お市様を織田へ帰されたそうね・・・。」
ゆらり。
揺らめく蝋燭の炎。
近江、小谷城の一室。
開かれた襖から足を踏み入れたは、
背中を向けている城主、浅井長政にそう声を掛けた。
「ああ・・・某は・・・義兄上を裏切り、同時に市への愛をも裏切ってしまった・・・。
これ以上・・・市を苦しめ続けること等・・・出来ぬ・・・。」
僅か震える長政の声。
その端正な顔立ちは悲痛に満ちている。
はゆっくりと彼の背へと近寄ると、
細く白い腕を伸ばし、その肩に触れた。
「お市様なら・・・ここに残って貴方とその苦しみを共にする事も厭わなかったでしょうに・・・。」
「・・・分かっている・・・。だからこそ・・・、某は市を傍に置いておく事が出来なかったのだ・・・。」
「・・・・・・・・長政様・・・・・・・。」
彼の名を呼んだは、微か切なげに眉根を寄せた。
深い絆、そして底の見えぬ愛情。
長政と市。
離れ離れになろうとも、二人の心を別つ事は誰にも出来ない。
それをは十分に理解していた。
明らかな政略結婚。
珍しい事ではない。
だが、この二人は真なる意味で夫婦であった。
心の深淵で繋がる愛情。
恐らく、この先どの様な悲劇が待っていたとしても、
それだけは何人にも絶つ事は出来ない。
しかし、それを承知していながら尚、は長政を想い続けている。
彼女は長政の背に身を寄せ、瞳を伏せた。
「長政様・・・、私をここに、貴方の側に置いて。
そして貴方と一緒に信長の軍勢と戦わせて。」
静かに、されどハッキリと告げられる、彼女の言葉。
長政は僅かに身を震わせ、両の手に拳を握る。
やがて、左右に首を振って答えた。
「ならぬ・・・、・・・。某は市への愛を裏切ったと言う重い罪を犯した身の上・・・。
そなたの愛を受ける事など・・・・出来ぬのだ・・・。すまない・・・・。」
は彼の背中に触れ合わせていた腕を、ゆっくりとその体に回した。
そして、彼がそれを拒むより早く、言葉を紡ぎ出す。
「長政様、私の愛情を受け入れて欲しいなんて言わない。
ただ、許して頂戴。貴方の側にいることを、一緒に戦う事を。」
「だが・・・・。」
「お願い・・・長政様・・・。」
「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・。」
彼の体に回された彼女の細い腕が、小刻みに震えている。
長政はその腕に視線を落した暫くの後、静かに口を開いた。
「某が愛を貫こうと心に決めている女子は唯一人、市だけだ・・・・。
それも叶わぬこととなったが、某は・・・・・・・」
「ええ・・・、分かってるわ。」
「それでも・・・・そなたは・・・・・・・・・・・。」
「ええ・・・・・・・、私は貴方を愛しています。」
言葉と共に、彼女は心の内で哀しく微笑んだ。
全てを承知で、それでも、決して長政から離れられぬ彼女の想い。
「・・・・・・、ならば、本当に某と共に義兄上と戦うと申すのだな?」
「ええ。」
彼女がそう返事をした刹那。
長政は、ゆっくりと彼女と向かい合わせになり、その細い肩に手を伸ばした。
「すまない・・・・・・。」
「ふふ・・・、謝らないでよ。私がそうしたいのよ、させて欲しいの。
・・・・だって・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・。」
紡ぎかけた言葉を切り、彼女は口を閉じた。
そして、自ら長政の胸へとその身を寄せる。
―お市様の出来ない事を、今、貴方の側に居ると言う事を、
出来るのはこの戦だけだわ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・。
心の内で続けた台詞。
は思わずそれに唇を歪めて笑った。
哀しい愛情。
しかし、それを惨めだと思った瞬間から、恐らくこの恋は醜いものへと変化してしまう。
彼女はそう考えていた。
自らに言い聞かせる如く繰り返す言葉。
市を深く強く愛する長政だからこそ、こんなにも惹かれたのだと。
「そなたの存在には・・・救われている・・・・・・。」
「・・・・・・・・え?」
不意に掛けられた長政の言葉に、彼女は顔を上げた。
彼の瞳が優しげに細められ、彼女を見下ろしている。
「市と出会う以前にそなたに出会っていたとしたなら・・・、
某はそなたに心惹かれていたかもしれぬな・・・・。」
「長政様・・・・。」
そこで彼は、ふ、と、哀しげに微笑した。
「すまぬ、。この様なこと、本来そなたを前にして口にすべきではないな・・・。」
「ふふ、そんなことないわ。・・・・・・それだけでも、私は十分嬉しいわよ?」
言った彼女が、片手を伸ばし、長政の黄金色の髪に触れる。
そして更に続けた。
「ねぇ長政様、私・・・元々こんなに慎ましやかな考えの女じゃなかったわ・・・・。
自分で言うのも何だけど、欲しいものには必死で手を伸ばして行動してきた。
そしてそうやって手に入れて来たものも少なくない。
・・・・だけど、貴方に関しては・・・自分でも驚く位、控えめな考えしか思い浮かばないのよ。
例えば・・・・・貴方が誰を想っていても、ただ見ているだけでいいんだ、なんてね。」
は肩をすくめて笑い、彼の髪に触れさせている手をゆっくりと頬へ滑らせた。
「とは言っても、少しも期待してない訳じゃないわ・・・。
長政様・・・卑怯な私を・・・今夜だけは許して・・・・・・・・・・・・・。」
「・・・、某は・・・・・。」
「お願い・・・・。」
彼女はゆっくりと長政との距離を縮め、互いの吐息が重なり合う。
彼は躊躇いの表情を見せた後、やがて自らの紅い唇へと口付けを落した。
彼女は踵を上げ口付けを更に深いものへと促しながら、
長政の頬に触れた手を移動させ、再びその美しい黄金色の髪を弄び始める。
互いの舌を絡め、交わる熱い吐息が口内を満たした。
の肢体へと腕を回した彼は、力を込めて彼女を抱きしめる。
市を深く愛していながら、何処かでにも強く惹かれていた。
―市と出会う以前にそなたに出会っていたとしたなら・・・、
某はそなたに心惹かれていたかもしれぬな・・・・。
曖昧に告げてしまった言葉。
されど、心の奥底の真実をそのまま口にしてしまうことだけは、
彼はどうしても避けたかったのだ。
同時に二人の女人に心奪われる事等、
長政唯一人を深く愛し続けた市への冒涜の様にさえ思えた。
・・・某はこれ以上、市への裏切りを重ねる事は出来ぬ・・・。
長政の思いとは裏腹に、抑制の利かぬ程に激しさを増す口付け。
触れ合う体は熱く、互いに強く求め合っているのだと自覚する。
フッ
不意に、蝋燭の炎が数本、消えた。
元より薄暗かった室内は、ほぼ闇色へと包まれる。
やがて響き始めた衣擦れの音と、
微かに弾む二人の吐息がその場に艶かしさを与えた。
一夜限りの契り。
恐らく最初で最後になろう事を知りながら、
長政とは暗闇の中、互いの肌の温かさをその身で感じていた。
(終わり)
後書き
悲恋なのかどうなのか。それ以前に別にこれ孫市妹じゃなくても良かった話!?(苦笑)
文字通り市命のイメージが強烈な長政の為、複雑な話になってしまいました・・・。
では、ここまでのお付き合い、誠に有難うございます。失礼致します。
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